見出し画像

愛していたことの証明。

先日読ませて頂いたこの記事。

いつも記事を読ませて頂いている、間詰ちひろさん。
毎朝、noteを開き、間詰さんの記事を読むことがわたしの日課だ。

先日、お父様がお亡くなりになったことを記事で知り、何かコメントを、と思ったのだが、書いては消し、書いては消し、結局何も言えなかった。

ゆっくり悲しみを感じられますように。
勝手ながら祈らせてもらうくらいだった。

親が亡くなる喪失感と言うものは、言葉に出来ない。
わたしも昨年それを経験した。

最近の間詰さんの記事は、どれも
「ああ、分かる、この気持ち」
と共感してしまうものばかりだ。

先日読ませて頂いた、上記の記事もそうだ。
わたしの時もそうだったな…
その時の出来事と感情を再体験するかのように、色々なことが思い出された。
時間は去年の8月にタイムスリップしていた。


父が亡くなったのは7月25日。
葬儀が一段落し、もろもろの手続きをするために母と一緒にお役所関係をまわった。

まず手続したのは年金だった。
我が家から年金事務所は車で1時間ほど。
わざわざ遠くに行って、書類不備があった、ということは避けたい。
わたしたちは近所の支所に行って、まず必要書類を教えてもらうことから始めた。

手続きにはたくさんの証明書類や、印鑑が必要だった。
それを受付のお姉さんから一つ一つ説明を受けていたのだが、
母が、ある書類に住所を書いた瞬間、お姉さんの顔が一瞬曇った。

「あれ?奥様、ご主人と住所が違いますね?」


父と母の住所は違う。
それは兄の障害が理由だ。

わたしたち家族4人は、もともと一緒に住んでいたのだが、
わたしが大学生の時に、兄が交通事故で車いす生活になったため、バリアフリーの家が必要になった。

家を改装しようと思ったのだが、駐車場から自宅に入るためには、どうしても大きな道路を横断しなくてはならない。
それは危険だということで、あたらしく兄のために家を建てた。
詳しくは分からないが、介護車を購入する際に、同じ住所に介護者(運転者)が必要だ、ということになり、兄の新しい住所に父が入ることになった。
元の自宅では、自営業をしていたため、母はそのままの住所だった。

簡単に言うと、そのような流れなのだが、それを言葉だけで説明して
「はい、分かりました」と納得してくれるはずはない。

「お母様とお父様が夫婦であったことの証明が必要になります」
そう言って、お姉さんは新たな書類を出してきた。

正確には覚えていないが、その書類にはいくつかの項目があり、そのどれかを満たしていれば二人が夫婦であったことの証明になる、というものだった。

項目は
・月に〇度以上面会をしていたか
・メールや、手紙、電話のやり取りを月に〇度以上していたか
・金銭的な援助をしていたか

など。

いやいや!月に〇度って!
毎日一緒にご飯も食べていたし、夫婦二人で生計を立てていたし、
それにこの時代、手紙って!

わたしも母も、書類の内容にびっくりしていたけれど、頭では仕方のないことだと理解している。
夫婦関係は破綻しているのに、それを偽り、死亡後の不正受給をする人が出てはいけない。

でも、さらに驚いたことは、その書類の最後には、二人が夫婦であったことを、より客観的に証明するための、第三者の署名・捺印が必要だったのだ。

第三者なので、〇等身以内の親族の証明は無効。
民生委員の方や、近所の方、老人ホームの職員、それらの方のサインももらわなければならなかった。

何度も言うが、それが仕方のないことだとは分かっている。

でも、父を失ったばかりのわたしは、その機械的な証明方法に、どうしても心がついていかなかった。


父は病院のベッドの上でよく母のことを口にしていた。

「お母さんと、たくさん旅行に行ったなぁ」
「中国、韓国、北海道、沖縄、ベトナム…」

「千晴、今日はお母さんは何時に来る?」
「お母さんは、ご飯食ってるか?」

せん妄状態になり、意識が錯乱した時は
「今すぐ来てくれ」
と夜中に母に電話を入れ
「何ですぐに来れないんだ!」
と泣きわめき、

でも翌朝母の姿を見ると
「お母さん、来てくれてありがとうな」
と本当に穏やかな顔で微笑んだ。

「お母さんがな、『生きていてくれるだけでいい』って、そう言ってくれてな、お父さん嬉しくてよ」
と泣き、

青いTシャツを着ている母を見て
「お母さん、似合うな」
と微笑みんだ。

そんな父の背中と、腹水でパンパンになったお腹と足を、母は何度も何度も何度もさすった。何度もさすった。


『夫婦であったことの証明』
『面会回数』

そんな言葉を見ていたら、数日前まで
「お母さん、お母さん」
と母を呼んでいた父の姿が浮かんで、泣けてきた。

誰が何と言おうと、夫婦だったのよ……

そんな気持ちでいっぱいだった。


数日後、わたしは書類を書き、隣のおばちゃんにサインをしてもらった。
おばちゃんは、近くで両親の姿を見守っていてくれた方の一人。

「そんなことを証明しなくてはいけないの?
切ない世の中だね…」

そう言って署名・捺印をしてくれた。


両親が夫婦であったことを証明しなければいけなかったのは、当然、年金事務所だけではなかった。銀行も市役所も、全ての機関でわたしたちは数枚多くの書類を提出した。


数か月が過ぎた今、改めて思うこと。
それは『証明』って何だろう、ということ。

回数や、金銭的援助、それを証明と呼ぶことに心がついていかなかった、あの時のわたし。

「こんなもの書かなくても、お父さんとお母さんは夫婦だったのよ!」
そう言ってお役所でわたしが泣きわめいても、それは何一つ証明にならない。

必要なものは、ただ一つ、目に見える事実だけ。

「お母さん、ありがとうな」
そう言った父の微笑みは、そこでは何の価値もない。

サポートありがとうございます。東京でライティング講座に参加したいです。きっと才能あふれた都会のオシャレさんがたくさんいて気後れしてしまいそうですが、おばさん頑張ります。