見出し画像

わが青春の漫画

日本人は「先生」という敬称を使って媚びがちである、みたいな言説は、水木しげるの漫画「ブリガドーン現象」でのセリフだったか。確かにあまり使い過ぎるとイヤらしく聞こえる表現ではあると思う。

日本語における「先生」は、基本的に教員に対して使われるのがメインで、少し応用的に作家や議員にも使用されるわけだが、なんとなくゴマすりな感じがするので、僕は教員以外にはあまり使わないようにしている。

まして会ったことのない人物に使うことはまずないのだが、例外がひとりだけいて、それというのが漫画の神様、手塚治虫である。(なお、ここでは鬱陶しいので敬称は省く)


特に小学校高学年から中学生くらいの時期にかけて、僕は手塚漫画にハマりまくっていた。家の近くにブックオフがあるのをいいことに、主として秋田文庫版の作品を100円~300円という安価で買いあさっては読みふけっていたものだった。

僕は残念なことに絵が一切描けないので、模倣したり同人的な作品を作ったりという「推し活」は出来なかったが、仲のいい友人を半ば強制的に引っ張ってきて手塚ファンクラブを開設していたのも、若気の至りとしてよい思い出である。


その僕が手塚治虫に魅了されるようになったきっかけの作品が、『ブラック・ジャック』であった。

といっても、2004年から2006年まで放送されたテレビシリーズの方ではなく、その前年の2003年末に放送された特番『命をめぐる4つの奇跡』の方を観てのことだった。たまたまチャンネルを切り替えたらやっていたのか親が観ていたのか、細かい状況は覚えていないが、記憶によるとそのとき僕が観たのは後半部、「U-18は知っていた」と「ときには真珠のように」の2話分だけだった。

特に「ときには真珠のように」の衝撃は大きかった。人体の神秘、仁術としての医療の尊さ、そして容赦なく訪れる死の虚しさが、短い尺のなかに凝縮された名エピソードである。

幸い母親が元々ブラック・ジャックの読者(『週刊少年チャンピオン』連載時に読んでいた)で、母の実家に原作の単行本が全冊あったので、放送直後ただちにそれらを全巻読破した。アニメシリーズが放送を開始する2004年までには、単行本未収録の数作を除く全エピソードを把握し切り、どれが映像化されるのかワクワクして待ち焦がれていたものだった。



なんでいまこんな話を始めたかというと、10月の頭、なんとなくアマゾンプライムの配信開始作一覧を眺めていると、その中に手塚治虫作品が犇めいているのに気づいた。

鉄腕アトム』は白黒版から2003年版まで揃っているし、『W3』とか『リボンの騎士』みたいな往年の名作も、『ある街角の物語』『ジャンピング』のようにアニメ史に残るべき短篇も、幻の『ドン・ドラキュラ』だって8話全部配信されている。
「いったいどれから観ればいいのか!」と頭を抱えた手塚ファンは少なくないだろう。(ちょい大げさ)

で、もちろんその中には『ブラック・ジャック』もあるわけで、この頃は余裕のある時に少しずつ味わうようにして楽しんでいる。

放送当時は全エピソードを録画していたわけではなかったので、ほとんどの話は1度観たきりということになる。
例外的に第1話「オペの順番」とラルゴ登場回の「ひったくり犬」は後年になって観る機会を得ていたが、それ以外については「あ、これもアニメになってたんだっけ」という話がけっこう多かった。

いま大人になって改めて観返すと、原作のタッチを限りなく映像に活かしたアニメ化に成功していることに気づく。原作の構成が見事なのは、手塚が停滞期を脱するきっかけになった作品である(『ブラック・ジャック創作秘話』参照)ことから察せられるけれども、このアニメ版も決して冗長になっていない。


また、このアニメでは〈現代〉すなわち2004年あたりを舞台としているのだが、『ブラック・ジャック』で〈現代〉を描くとしたらギリギリの年代だったのではないかと思う。

原作が書かれたのは1973年から1983年で、当時はパソコンなど一般に普及していなかった(一部のマニヤがマイコンを嗜んではいた)し、携帯電話という言葉も知られていない、下手したら言葉じたいなかったかもしれない。

対してアニメ版においては、ピノコは二つ折りのケータイをもっているし、ブラック・ジャックもパソコンで仕事をしている場面がある。
これらの描写は別にストーリーに影響を与えることはないだろうが、たとえば無線通信の交流を描いた「ハローCQ」となるとさすがに〈現代〉の物語としては不自然になるわけで、アニメ版では「メールの友情」とタイトルを変え、Eメールでのやりとりに置き換わっている。

さらに20年近くが経ったいま、〈現代〉の文脈に『ブラック・ジャック』を組み込むのはさらに難しくなったと僕は思う。

誰もが超小型高性能コンピュータを携帯し、どこでも高画質の写真が撮れ、世界中どこにいても瞬時に連絡が取れる。GPSを利用すれば自分の現在地も目的地までの道のりだってわかる。ネットを通じて買い物をすれば外に出る必要すらない。
時代を否定しているのではないし、僕だって80年代の不便の中で生活したくはないが、そういう〈現代〉において、『ブラック・ジャック』のよさはどれだけ発揮できるだろうかと、疑問に思ってしまうのだ。


話は逸れるが、そういう意味でいくと『ルパン三世』の万能感はずば抜けている。70年代版のアニメをいま観ても楽しめるし、逆に近年の新作でルパン一味がスマートホンを使いこなしていてもまったく違和感なく、世界観が損なわれていないのだ。『サザエさん』『ちびまる子ちゃん』のように完全に時代を固定して続くものもあれば、『ルパン』のように時代に適合しながら続いていく作品もあるのだなぁと改めて思う。どちらがいいとかではなく。



しかしまあ、『ブラック・ジャック』は高確率で泣けるので、観るに際しては体力の消耗が激しい。「ながら観」もしたくないし、タイミングを選ぶ作品だからまだ全部は観返しきれていないが、他の手塚作品も摘まみつつ、ゆっくり進めたいところだ。

他の作品と言えば、『火の鳥』もまた読み返したい。小学3年で読んだのが最後だし、たぶん当時の知能では大河作品としては読めていなかっただろうから、改めて大人の目線で読めたらなぁと思う。


ともあれ、僕にとって手塚治虫はいつまでも「手塚先生」なのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?