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新生活の訪れ

母からお守りを贈られた。聞くところによると、僕は今年が方位厄なのだという。

ありがたく受け取りはしたけれども、そもそも「厄年」ってのすらよくわかっていないうえ、「方位厄」に至っては聞いたこともない。いったいに科学の子であるところの僕は、こういう神がかり的なものに一切興味がなく、信じようとする気持ちすら希薄なのがよくない。


ところで、4月から僕の生活は大きく変わることになった。簡単に言うと、「先生」になることが決まった。
まあ詳細はどうでもいいのだけど、自分が「新生活応援セール」の正しい対象になる日が来るとは思ってもいなかった。

なにしろこの6年間——noteを書き始めてからの約4年間は特に——趣味である初版本蒐集のことしか考えてこなかった。その合間合間で独り暮らしを成立させるために頭を悩ませることはあったけれども、「仕事」とか「キャリア」という点では一切の進歩がなかったと言っていい。
この心理的ブランクはかなり厳しいものがある。
環境を変えるだけでも相当なカロリーを使うはずなのに、それが二重に新しいとなればなおさらである。前途は極めて不安だが、「まあ始めるとなったら『いま』が一番早いタイミングなので」と人事の方に言われたのがちょっとばかし救いにはなっている気がする。


方々に不義理を重ねっぱなしだったが、ここにきてようやく、学生時代に賜った学恩に報いる形になったのは幸いであった。お世話になった先生方への挨拶は済ませたし、おおかたの伝えるべき人には正しい順番で連絡をした(と思っている)。こういう義理というか仁義というか、やくざ者なりに通すべきスジはわきまえているつもりである。

スジといえば、先日とあるシンポジウムに参加した。先生に誘われて訪うことにしたのだが、テーマ的には英語がメインである。当然その発表も半分以上は英語で話されるので、下等なる遊民としては付いていくのがやっとだったが、刺激的でずいぶん勉強になった。
で、閉会後に懇親会で飲み屋へ行く段になり、比較的躁状態にあった僕はアウェイの空気感を無視して参加することにしたのだが、酒の助けもあってか思ったより交流が図れている自分に驚いた。

というのも、ここ数年というもの、僕は内向性に磨きがかかって初対面の人とうまく話せなくなっていた。そもそも夜の生活がメインになっていたから、日中に人と会うとなるとコンディションが万全ということは絶対にないわけで、まあそういう健康面でボロボロだったことも含めて、実に暗い年月を歴ていたことになる。

このシンポの日も、例に漏れず徹夜明けで眠たくはあったけれども、それを吹き飛ばすほど参加者の人たちと話すのは面白かった。
さらに言うと、そういえば学生時代の僕はこうやって学びの機会を得ていたのだな、と思い出すことができた。人とのつながりを増やすことが、視野や経験の幅を抜群に広げてくれることは、古本蒐集を通してもわかっていたはずなのだが。


初版本コレクターとしての頭打ち(現時点での)が見え、いちおうの成果をあげられたタイミングというのもちょうどよいところであった。

目下、人と会う用事とかやっておくべきことが目白押しで、ろくろく寝る暇もとれない日々を過ごしているのだが、これも考えれば実にありがたいことである(したがってこの文章は100パーセント息抜きとして書いている)。変に立ち止まって考えこまず、この躁が続いている内に、ある程度の距離は走り抜けておきたいものだ。


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