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今日も落語に魅入りたい

先日人生初の落語会に赴いた。

今回初めて前座さんの高座を拝見す。大勢のお客さんを前にしているためかの堅さとお客さんを洞察する力を身に付けようと懸命に噺する姿は初々しく微笑ましく孫を見守る心持ちがした。
師匠、お客さんが心地好く噺に浸るよう慇懃に高座返しをする姿は謙虚さと精進の意気が見えて未来の真打の軌跡に立ち会ったような感覚であった。

前座さんの噺の後に真打の噺、姿勢を拝見すると自省しつつお客さんを洞察し求められる笑いのツボ、お客さんの笑いの琴線を掴み取り、自身の噺の世界へ引き摺り込むこともちろん、日々の精進の姿、洞察力をお客さんに悟らせない姿が見えた。マクラと噺に笑うと同時にその技量に畏れ慄いた。これが真打なのだと(ここで「あかね噺」のみくちゃんが「人の心が読めるんじゃないかなって思ったのよ」と志ぐま師匠のことを評したこと思い出したのは言うまでもなし)

自省し師匠の教えを吸収し反芻していく姿勢、他者を洞察する力がなければこの技量は得られぬであろう。被害者意識を剥き出しそうになることを受け容れて歯を食い縛る前座時代があっての真打。

当然の如く真打は通過点。真打からはさらに自身の世界を拡大して、さらに後世に師匠始め先達の教えを継承していく。今日まで落語が残っている所以がこれなのだろう。

以前であればこのような感想を抱いたことに自惚れ高慢な態度でいたが、傲慢さと噺家さんから見たら鼻白むであろうと気付いてまた笑うのも落語の効能であろうに考察した。

音源で夢中になっているのだから生の高座を観たらどっぷり浸かると予想していた。見事的中した。

狂信狂乱に至れば自身を客観しなくなるのでそれを抑えつつ、この後も行くところまで落語に魅入りたい。