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今日も散歩してきた

母、母方の祖父が読書好きということもあったためか実家には時代小説、ファンタジー小説、絵本、戦争体験、行動心理学、写真集、料理本といった本があった。祖父が毎晩小説を読み耽っている姿、祖父の本棚を眺めていた。母は所持しているものはもちろん、図書館や保育園で借りてきた絵本、定期購読していた「こどものとも」を寝かしつけの際によく読み聞かせてくれた。

そのため本を読むこと、字を読むことが自然と身になっていたのかもしれない。小学生時代好きな授業は国語と図書だった。

国語というより国語の教科書が好きというのがいいだろう。物語、説明文が詰まった一冊を捲るたび「早くこの単元にならないかな」と待ち遠しく思っていた。
授業中にも関わらず他のページを捲っていたことはしょっちゅうでよく注意されたものだった。

図書では図書室に移動して司書の先生が読み聞かせしたり、新しく入った図書を紹介したのち各々が読みたいものを終業まで読むという授業だった。

いつもと変わらず過ごしていたある日、終業のベルが鳴った時驚愕した。
「いつの間にこんな時間が経っていたのだろう」ハッとしたことは今でも鮮明に記憶している。本を読んでいる時間はあっという間だった。その世界の主人公、語り手の世界を視たり、感情移入していた。このトリップが病みつきになり、読書が好きになった。

その次の読書に関する記憶は雨の日にコーヒーを飲みながら本を読むというなんとまあませたことである。この雰囲気に魅入りさらに本を読むことが好きになった。

国語の便覧、社会科の資料集、保健室前の加糖飲料に含まれる砂糖の量を記したポスターや無理なダイエットの危惧を示したポスター、お菓子に含まれる砂糖と脂質を記したポスターと言った掲示物、給食の献立とそのコラムを視るのもまた好きだった。俗に言えば知識を増やす感動、新鮮さの虜になっていたのである。資料、掲示物、コラムに目を通すのが好きなことも母と母方の祖父のおかげであろう。

集団に入るより集団を視ることが好きだったこと、1人で過ごすことを好む気質だったためか、小中の休み時間、次の授業までの休憩時間はひたすら本を読み、掲示物や資料に目を通していた。

しかし高校へ入学してからは友達を渇望していたこと、新たな発見を求めて運動部に入部したことにより読書がおざなりになった。
友達がいないことを恥じるようになっていたこと、運動部という小さなヒエラルキーで身も心も荒み、また初めて手にした携帯でネットサーフィンに依存したこと、漫画にのめり込んだこともその理由であろう。

その後進学、就職してからも年に数えるほどしか本を読まなくなった。0なんて年もざらにある。
課題、アルバイト、車の運転が増えたこと、違法労働企業への就職、恋愛、映画、買い物等、読書よりも比重を置きたいものが増えてさらに遠ざかった。それはより身も心も荒み、自己憐憫、ヒステリックに陥り、他人の言葉を間に受けていて、己を疲れ果たしていた。

再び本を読むことができたのはあの1年前だった。休業、大規模な移動の自粛、当時通い始めたばかりだったジムの休会は等しく与えられている時間なのに以前より余裕が生まれた感覚になった。

ふとNHK教育テレビで放映されている「グレーテルのかまど」で知った内田百閒先生、角田光代先生の「薄闇シルエット」、武良布枝さんの「ゲゲゲの女房 人生は……終わり良ければ全て良し!」、水木悦子さんの「お父ちゃんのゲゲゲな毎日」、パンデミック1年前に当時登録していたジムにて筋トレをしていた時TVで流れた田辺聖子先生の「苺をつぶしながら」の「コタエタ」についての一文に全身に稲妻が走ったことを思い出し読みたくなったのだ。

内田百閒先生を読み「阿呆の鳥飼」の解説が角田光代先生で驚嘆し「NHKネコメンタリー猫も杓子も。もの書く人のかたわらにはいつも猫がいた」でも角田光代先生に出会い、薄闇シルエットを知った時は「大人の女性ってこんな感覚なのかあ」と共感していた(といえば聞こえはいいがようは傍観である)が、角田光代先生の世界観が今になって共感に加えて共鳴もしており、変化の面白さに味を占め、「中年体育」に勤しむこと始め日常についても同感、共感、共鳴が満載で、角田光代先生の作品を読みたくなる。

「苺をつぶしながら」を機に、人生をユーモラスに捉え達観されていること、男女の関係、憂や苦労、人生、世相を省察し紐解かれ、それを愉しまれている姿に驚嘆し感銘を受けたこと、少女のような溌剌さとオトナの礼儀を持ちチャーミングを忘れない姿の風光明媚さに溜め息が出てお聖さんの本をたくさん読みたくなる。

角田光代先生を通して芦沢央先生、穂村弘先生、三浦しをん先生に出会いさらに読みたくなる。お聖さんの「女は太もも」の酒井順子先生の的を射た解説に共鳴し酒井順子先生の作品を読みたくなる。

本屋さんの「BUTTER」のPOPに「バターが怖くて仕方ない」の一文に惹かれて柚木麻子先生と出会い、柚木先生の作品を読むようになる。

「本屋さんのダイアナ」で森茉莉さんを知り、「幸せ」と「不幸」についての価値観に共感し新たな世界を観たこと、少女のような可憐さと厳しく鋭く世相、ご自身を省察し周囲を洞察するさまに魅入った。

「字のないはがき」が印象強かったことに加えて、中学の国語担当の教師が向田邦子さんを好きだと熱弁を奮っていたことが記憶に残っていたこと、その数年後「主に泣いています/東村アキコ」で向田邦子さんを目にして「あっ」と声を上げたこと、「グレーテルのかまど」で「水羊羹」を知り、そのまた数年後に某老舗料理店が発行するおたより本の投稿コーナーにて「箸置き」を知りその内容に感嘆したことを機に向田邦子さんの作品を読み、そのかけがえのない光、人間臭さのなんと温かいことを知り今に至る。

本を読むたび語彙や表現の少なさ、視野の狭さ、身に沁みていないことを痛感し目を逸らしたくなる一方、新たな表現や語彙を知ったときの感動とその新鮮さ、知れば知るほど知らないを知り、深めていく楽しさを味わうことが病みつきになる中毒を再発症した。

新たな本を知り読むこともあれば、知っている作品や人物が他の作品に登場すると感激したり驚嘆する。
(「私のなかの彼女/角田光代」に内田百閒先生の「御馳走帖」、「今日も1日きみを見ていた/角田光代」に同じく百閒先生の「ノラや」、「本屋さんのダイアナ/柚木麻子」に向田邦子さん、「入れたり出したり/酒井順子」に向田邦子さんの海苔巻きの随筆、「阿房列車/内田百閒」に金田一京助先生、「二人でいるのに無言で読書(終点のあの子収録)/柚木麻子」にお聖さん、「野良猫を尊敬した日」か「本当は違うんだ日記」かどの書籍か忘れてしまったが穂村弘先生の書籍に「八日目の蝉」が出てきたり、お聖さんの作品には中原淳一さんが多く登場されるなどなど)

それまで感情移入により読了後疲れ果てていたことに気付き、穂村弘先生のお言葉を拝借すると「神の視点」で小説、絵本を楽しむようになった。

この年になって触れた随筆、エッセイは「日常」「普通」は個人感のものであり、他者と比較したりましてや普遍化すること、物差し、基準を明確にすることは極めて困難である、それ故に面白く「この方が目にしている世界を見てみたい」と探求し(と言えば聞こえはいいが要するに野次馬根性である)他者の世界を知ることは自己省察、他者洞察に繋がり世界を広げる哲学なのではないかとも考えるようにもなった。

穂村弘先生の別世界についての発想、見解に触れたことで、本のみならずドラマやウルトラマン、はたまた現実世界で起こっていることとは真反対のことが、全く異なることが別世界で起こっているのかもしれないと思うようになる。

例えばこの世界の己はおひとりさまを満喫しているが別世界の己はおふたりさまに生きていたり家庭の構築に躍起しているのかもしれない。この世界では雇われだが別世界ではフリーランスかもしれない。別世界ではリカちゃん人形やシルバニアファミリーが好きかもしれない。ドラえもんマニアかもしれない。性別が逆かもしれない。大学院まで進学しているかもしれない。専門学校に進んだかもしれない。海外在住かもしれない。薬剤師かもしれない。ノンフィクションライターかもしれない。九州在住かもしれない。東北生まれ都内在住かもしれない。犬派かもしれないなどと空想する。

今己が感じていることは外の世界から見たら違うこと、正反対のことかもしれない。内側から見ること、外側から見ること。どちらの見方も面白いことにも思い知る。知っていたつもりで知らなかったのだと雷に撃たれたこともある。

色々つらつらと並べたが、総じて言えば現実世界で卑劣になったり、悲観することがなんだか滑稽に感じるになったのである。

多くの小説家、随筆家の先生は自己の体験を巧みに小説、エッセイに昇華していることに感嘆の唸りが上がる。さくらももこ先生が「過去の失敗や笑い話、嫌なことは全て漫画のネタにしている」みたいなことを仰っていたが、過去の栄光に縋ることなく過去の失敗や不運にヒステリーや自己憐憫に陥ることなく良い意味で他人事に捉え、無理なくプラスのパワーに加えていく姿は模倣していきたいと捉えるようにもなっていた。

己の現在の生業は読書を通じて志したというのもある。本は様々な出会いのきっかけが散りばめられているのであろう。

移動が車から電車になったこと、スマフォ断ちを習慣化したことで本を読む時間に比重を置き、いわば散歩する感覚、時には旅する感覚で本を読んでいる。

読書感想文というより単なるメモ、単なるメモというよりは通帳記入の感覚で出会った本、楽曲、映像作品と出会ってを思い、何を感じ、何を考えたかを残して反芻している(大変恐縮だが向田邦子さんの仰る『反芻旅行』である)

角田光代先生の「私たちには物語がある」三浦しをん先生の「本屋さんで待ち合わせ」に本との出会いはかけがえのないものだというのを痛感したからでもある。

読みたい本が沢山ある。一方で購入していれば破産しかねる。10代の頃は買うことに執着していたが、現在は図書館を活用して本との出会いを楽しんでいる。
本以外にも図書館で新聞、雑誌にも目を通すようになり、吝嗇な質が出て住民税の何割が図書館代だと捉えている(計算するもノルマ化して辟易するので計算したことはないが)
時の本だと予約待ち50人ということもあるがその間は「ラッキー。その間に他の本と沢山出会える」と思い、様々な本を手に取っている。

「幼少時代、学生時代にもっと読んでおけば」と卑屈になる一方、その時読むものはもしかしたら流行りものばかりになっていたような気もする。それでは中身が培われない場合もある。今だからこそ読む大切さが身に沁み、楽しみ方も拡がり、未来への投資となるように感じる。

その度に角田光代先生の「私たちには物語がある」の一節、「私たちには物語がある」を読んで涙したと語られるかわいかおりさんの一節を思い出す。

己とって本との出会いとは、その先へすすむミチシルベであり、煌めくもどこか儚いものを感じるものであると思うのである。