真実を一つに限る必要はあるのか

 僕はコナンの「真実はいつも一つ」という言葉が好きではない。コナンという作品は嫌いじゃないし、まじっく快斗は子供の頃通っていた病院に置いてあったので好きでよく読んでいた。

 この話を続ける前に僕の思う事実と真実という2つの言葉の意味を確認しなければならない。
 僕の言う事実とは、既に起こった出来事、科学的に正しいとみなされている事という認識だ。そして真実は、ここに感情などの主観的なものも入ってくる。
 例えば電車でAさんがBさんに席を譲ったとする。この時の事実は上の通りだがAさんが何を思って席を譲り、Bさんは譲られてなんと思ったのかは当事者にしか分からない、しかしそこまでを問うのが真実に感じる。そしてその真実には食い違いもよく起きる。同じ出来事について話しているのに認識が全く違ったなんてのはよくある話だし、ありがた迷惑なんかもこの類だと思う。
 
 人の感情は流動的で思考プロセスもいつも同じでは無いので事の動機なんてのは1つでは無いだろうし、それこそ思い返したらよくよく考えてみると…と変わるかもしれない。そんな主観的な部分にまで追求してお互いの真実を擦り合わせる必要がどれくらい、本当にあるのか、逆にどういう場面でそれが必要になるのかをしっかり考えないといけないのかなと思う。特に多様性が騒がれる世の中では。

 コナンの話に戻るが僕はあの台詞が好きでないだけで、刑事責任能力や刑事事件の動機は追求するべきだと思う。ここは上で書いた事実の、科学的に正しいとみなされている事に入ると考えているからだ。感情や思考は流動的だと思っているがそこを科学的プロセスで体系的にまとめようとしているのが心理学なわけで、真実を擦り合わせて事実にしなければいけない部分だと思う。

 結局僕はここで何を言いたかったかと言うと「真実は"いつも"一つ」という台詞は好きでないしこの言葉についてみんなも考えて見てほしいということで。
 地球(事実)は1つだけれど、そこにはたくさんの世界(真実)が、それこそ人の数ほど在ることを思いながら今回は終わる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?