さだめの道の果てで会いましょう|ミュージカル憂国のモリアーティ Op.4 感想

【はじめに】
とにもかくにも、無事全公演勝ち取りおめでとうございます。生きているうちにこの作品を観られたこと、心から幸せに思います。
そしてOp.5上演決定おめでとうございます。開幕を心待ちにしています。

⚠ウィリアムのことが好きだしわりと贔屓しがちだし色々不幸だったね(婉曲表現)とは思うしああなるのも概ね理解はできるけど、基本的にひどい人……と思っているタイプの人間が書いています。推しを絶賛する感想しか見たくない方には向いていません。
⚠ふせったーやらTLやらに垂れ流していた話の再録含む。思考整理の側面もあるので脱線が多い。
⚠前半(1,2)は原作の先の展開のネタバレなしで書いていますが、モリ家キャラ別感想(3)からがっつり入ります。
⚠長い(2万字近くある)

1. 犯罪卿とは何者か

Op.4、まず「犯罪卿とは何者か?」で幕を開けたのが最高に好きです。特に第一楽章は人々にとっての犯罪卿とは何者なのかを示すような曲が続き、最後の事件へ至る道であることがひしひしと感じられました。

というわけでおなじみ開幕民衆ナンバー。
「犯罪卿とは何者か?」の問いに「悪を正すまことの義賊」と答える庶民側、「世を嘲笑う不埒な犯罪者」と答える貴族側。英雄、悪党、義賊、犯罪者……と歌うロンドン市民、庶民と貴族でその評価は真逆。
「犯罪卿は何処にいる? 犯罪卿は謎の彼方に」と人々が謎の霧の彼方を見つめることからも、この時はまだ民衆の誰も犯罪卿の姿を捉えられていないこと、「犯罪卿とは何者か?」に対する答えはひとつではないことが印象づけられるようなナンバーでした。

そこからシャーロックのソロに繋がるというのが、もうお見事としか言いようがない。開始数分にしてモリミュ歌詞が天才選手権の優勝候補筆頭が出てしまったな、と震えました。「犯罪卿という名の謎の城」「精緻な細工で築かれた城」といったフレーズのセンスもさることながら、Op.3や民衆ナンバーとの対比の鮮やかさよ。
心の輪舞曲(Op.3中盤)では「相手の見えないダンス」「どれだけ追っても朧に消える」と歌い、民衆と同じように犯罪卿を捉えられていなかったシャーロック。そのシャーロックが、Op.4では「犯罪卿は何処にいる?」と歌う民衆とは違い、謎の城の中にいる。その塔の頂上に追い求める相手がいると確信して。そして民衆の「犯罪卿とは何者か?」に答えるように「犯罪卿お前は義賊だ」と歌う。まだ捕らえるには至らないけれど、その本質を既に捉え、その姿も捉えつつある。
そこから始まるI willの連続。will/hope構文だ!と思うのも束の間、今作のシャーロック、willしか言いません。「おまえを捕らえる」は願いではなく決意なんですね。
この時点でシャーロックにとっての「犯罪卿」は義賊であり、必ず捕えたい相手であると定まっている。Op.3の感想で「ロンドの時間はもう終わり」と書いたのですが、Op.4のシャーロックは、Op.3――亡霊、狂想曲、そして一人の学生を経て、どれだけ追っても目的地さえ見えないようなロンドを抜け出し、既に目的地を定めたシャーロックであり、その目的地こそ城の最上階である。ものの数分でそう再確認させてくれるとともに新たな認識をも持たせてくれた美しい詞の数々に、もはやひれ伏すしかない。

続くウィリアムのソロも、前半はやはり「犯罪卿とは何者か?」に対する答えだったなと。「犯罪卿、それが僕の名だ」と、自分ひとりが犯罪卿であると自分自身で定義したのを確かめるような歌。
Op.4のウィリアムはことごとく「犯罪卿は単独犯」ムーブをしてきましたが、のっけからこれなので本当に手に負えない。Op.3で「三人でジェームズ・モリアーティ」を歌わないウィリアムに頭を抱えたのは私だけではないと思うのですが、思い返せばこの人、Op.2の時点で兄様の「兄弟三人でジェームズ・モリアーティなのだからな」にも明確に返事はしていないんですよね。

幕開け時点ではバラバラだった民衆の見解はホワイトリー殺害によって庶民が立場を一転させたことで「犯罪卿は市民の敵」ひとつに定まり、怒声と足踏み手を打つ音、全ての怨嗟の声は折り重なって犯罪卿ただひとりに向けられます。それこそジャックザリッパー事件と同じように。救世主を見るような目で犯罪卿を見上げていた伊地さん(演じる庶民の娘)の憎悪剥き出しの冷たい目、どこか安堵を滲ませ神に祈るような表情だった熊田さんのどうして、というような、困惑と怯えと悲嘆の混じり合った表情、その一転っぷりにぞっとした。ひとつの大きな事件は、光の喪失は、一瞬でこれほどまでに人のあり方を変えてしまうのかと。
そしてもうひとつ背筋が冷えたのが、「自分に関心集めたいだけのナルシスト!」というあの声。人殺し自体はもちろん大問題だし現行犯逮捕すべきなのは明白なんだけど、多少どころではなく英雄/義賊と信じていた時期があったはずの存在の犯行動機を「自分に関心を集めたいだけ、ホワイトリーを妬んでいただけ」とその場の全員が一斉に、瞬時に断定し、一瞬で掌を返してしまうことが信じられなかった。恐ろしく、気味が悪いとすら感じたんですよね。特に熊田さん(演じる庶民)。激情型っぽい永咲さん(演じる庶民)はともかく……ではないんですけど、えっ熊田さん(演じる庶民)それまわりの勢いに呑まれてるだけじゃない?みたいな。
もちろん、これは私があの状況を外側から見ているから言えることではあるのですが。ただこれ、現代日本でも普通に起きうることだよな、というか実際起きてるよな、と思って。その時に私がまわりに呑まれて、考える時間も取らず無責任に同調する側になっていない保障はどこにもないよな……と怖くなりました。
だからこそあの時、シャーロックが幕開けと同じ理性と軸を持って「読み解け見抜け」って出てきてくれたことに、どうしようもなく安心したんですよね。
あとレストレード。市民が揃って犯罪卿憎しに意識を持っていかれる中、「あまりにも大きな犠牲」と被害者のことを、そして何よりも「街が荒れる」と街全体のことを考えられる視野の広さにただただ感服しました。

「犯罪卿とは何者か?」の問いに対し、シャーロックは既に「義賊であり必ず捕らえたい相手」と明確な答えを出しており、民衆の答えも「英国に住む全ての人間の敵」ひとつに定まった。第一楽章はそんな、犯罪卿という存在の定義が確定した章だったなと思います。

ここでめちゃくちゃ当たり前の話をするのですが、ウィリアム以外のモリアーティ陣営にとっての「犯罪卿」って、モリアーティを指す語であって、ウィリアムひとりを指す語ではなかったはずなんですよ。
それが一幕ラスト、ウィリアムが民衆の怒声をその身に受ける中、ウィリアム以外のモリアーティ陣営が「犯罪卿はこの国の憎き敵に」と俯瞰したように歌う。人々が「犯罪卿とは何者か」に答えを出すのと並行して、ウィリアムを除くモリアーティ陣営が「犯罪卿」という概念から締め出されつつあるように感じられて余計につらかったです。

2. クライマックス解釈反転

各所でさんざん言われていることと思いますが犯人は二人クライマックス、東京前半までとそれ以降でかなり印象が変わりました。私の場合は印象変わったどころか完全に解釈が反転したのですが、これは観劇人生の中で初めての体験だったかも。正直賛否あるとは思いますが、そこにあるものが本質から別物になったわけではないのにある時突然自分の目に映る景色が変わるようなあの感覚、私は本当に得難い体験をしたなと思います。
以下、私も私の思考を整理しておきたいので記録として。あくまでミュの当該シーンについて私はこう感じた/思った/考えたという話なのでその前提で。

結論から言うと、この先の物語の動かし方について、大阪~東京前半(休演日まで)はシャーロックだと一切疑うことなく信じていた(というより、期待していたと言った方が正しいかもしれない)のが、東京後半では、ウィリアムが動かす側だという認識になったんですよね。「willと言わず今すぐ運命ひっくり返してキャッチユーしてあげてください」と希望の光であるシャーロックに対し思っていたはずが「約束通りこの道の果てで待ってるからそこまで追ってきてね(そして殺してね)」という形で、ウィリアム側がシャーロックを導く光になったとしか思えなくなった、くらいの反転っぷりだった。

この話をするにはまず平野良さん私の価値観を更新してくださりありがとうございますという話をしなくてはいけないのですが、というのも7日から、ミルヴァートンを撃ってしまった後のシャーロックの憔悴が半端じゃなくて。
引き金を引いた手が震えるのを逆の手で抑え込み口にする「策に溺れたおまえの負けだ」の揺らぎ方がとんでもないんですよ。負かした側の声じゃない。足取りも4日の配信と比べて明らかにふらついてたし。最後のソロの入りも、以前は扉の閉まる音がしたあと壁に背を預けたままずるずると力なく座り込むって感じだったのが、壁に寄りかかる気力もないのか階段を降り始めたところで前のめりに膝から崩れ落ち、顔を伏せた姿勢で蹲ったまま歌が始まるようになり、9日に至っては蹲ったその姿勢からさらに小さくなっていく。罪の重さに潰されるように。
告解シーンでホワイトリーが泣き潰れたまま全然顔を上げられないのとか、5日マチネのスターリッジがホワイトリーの慟哭とともにどんどん小さく潰れていくのにだいぶメンタルやられたんですが、みた時の印象が限りなくそれらに近くなった。スターリッジやホワイトリー邸の人々とミルヴァートンじゃ正直殺しの対象としての心象がだいぶ違ったこともあり、シャーロックがホワイトリーやスターリッジと同じくらいダメージを受けているという印象がこれまで全然なかったんですが、なんというか、はっとさせられてしまった。7日ソワレが終わったあと、帰りの電車で今日観られて良かったなを噛みしめるとともにめちゃくちゃ動揺してたし反省したんですよ。理由や相手が違えど人を殺したという事実は変わらないし、その引き金の重さも変わらないはずなのに、私は今まで一体何を見てきたんだろう、人が人を殺すということをなんて軽く考えていたんだろう、って。私はシャーロックの苦悩を一切考慮できていなかった。シャーロックの――人間の心というものを盛大に見誤っていたどころか、きちんと考えられてすらいなかった。いやもう本当に、雷にうたれたような衝撃でした。

で、一夜明けて急に不安になり始めた。
あの今にも潰れてしまいそうなシャーロックに、果たして運命を覆すだけの余力があるのか?
というかそもそも、あれほどの罪の意識を負ったまま、ウィリアムを追い続けられるのか?

そしてシャーロックが変わるのと並行して、というかそれを受けて、ウィリアム側の見え方もだいぶ変わっていって。

ミュの別邸って、
■モリアーティ計画上、ミルヴァートンは絶対に排除しなくてはいけなかった(これは明言されているし確定)
■モリアーティ陣営は、シャーロックが別邸に来ることを想定できていなかった(ルイスの反応からほぼ確定*1。これはウィリアムの落ち度➀)
■ウィリアムはシャーロックに、自分以外の人間を殺させる予定はなかった(言ってる人間の精神状態がだいぶやばいとはいえ明言されているし、実際シャーロックが適格者でなくなっては計画上致命的であることを踏まえても別邸以前からその予定であったはず、ということで確定で良いと思う)
*1 ウィリアムだけは読んでいたもののそれを仲間に共有しなかったという可能性も考えたが、読んでいたならなぜシャーロックが来る前にミルヴァートンを殺してしまわなかったのかという話になる(が、その理由まで踏まえて読んでいたと取ることも正直可能だと思う。ここは本当に解釈割れてる気がする)。ミュでは三竦み曲にウィリアムの「あなたが謀った策まですべて僕の計画した通りです」という歌詞が追加されているが、これは文脈的に「犯罪卿の名を報道する手筈が整っていること」にのみかかっているかなと思うので、やはり「ここでシャーロックと鉢合わせること」については想定外だったと考えたい。あとこれは私の妄想100で一切根拠はないが、この時シャーロックが笑うのを「おまえが俺の思うおまえだったなら」「すべてがおまえの思う通りになんていかせねえぞ」的に考えると「この場にシャーロックが誘き出されていることまで計画通り」と取るよりも「自分の名が世間に晒されることは計画通り」と取る方が私はしっくりくる。

これを踏まえて三竦みになった時、
■ここで現行犯逮捕されるわけにはいかないウィリアムとしては、あの場はシャーロックに撃たせるしかなかった
■そのため「おまえはこいつがくたばることを望んでいるのか」に「ええその通りです、それが僕の望み」と答え*2、最後まで撃つか撃たないか葛藤していたであろうシャーロックにとっての最後の一押しをしてしまった(ウィリアムの落ち度②*3)
*2 このやり取りを西森さんがわざわざ追加してきた意図を考えるに、少なくともミュのシャーロックは、親友の幸せを守るという本来の目的に、友人であるウィリアムの望みをかなえる(≒希望を守る)という目的が加わってしまったことで、「どんな理由があっても人を殺してはならない」という信念だけではあの状況下で歯止めがかからなくなり、引き金を引いてしまった面もあるのだと思う。
*3 たとえウィリアムの一言が最後の一押しになったのだとしても、最終的にはシャーロック本人のエゴでありウィリアムが教唆したとまでは言えないのだが、ウィリアム的には「自分が誘導した」と思っていそうというか、そう思いたかったんだろうなと。そう思うことでしか、シャーロックという光が罪を犯すという現実に対し既にホワイトリーという二人目の光(キャラ別感想にて後述)を失っている自分の精神を維持できないところまで来ていて、心理的防波堤として「自分が誘導した」という形を取った。冷たい言い方をするのであれば、要は自分にとって都合の良い言い訳を半ば無意識に自分の中でしているのではないかと思う。

わけですが(ここまで前置き)、その後が主題。
■ミュのウィリアムはなぜシャーロックに銃口を向けなかったのか

他のどのメディアミックスよりも先に互いに銃を向け合う犯人は二人扉絵再現キービジュを出してきたはずのミュ(まあいちばん先発なのでそりゃそうなんですが)がここでこうなるの、本当ミュは徹底してミュだな(だがわかる)って話は置いておいて。

さて、ここでようやく「7日以降シャーロックの憔悴っぷりが半端じゃない」という話に戻ります。
私、5日まではウィリアムは、眩しい光であるシャーロックに殺人をさせてしまったこと、その手を血に染めてしまったことそれ自体にショックを受けているものだと思っていたんですよ。自分のせいでシャーロックを適格者から引きずり下ろしてしまったというショック。だからあの場でシャーロックに銃を向けなかったのも、「向けられなかった」の方向に捉えていて。

それが7日のあれを観てからだいぶ本気でシャーロックの心配をしているうちに、待ってウィリアムさんあの人「信念を捨てその手で人を殺したことで心理的ダメージを受けているシャーロック」を目の当たりにして、そっちにショック受けてる部分相当あるな?と思い至って。
人を殺すことの重圧、その罪の意識に苛まれ続けるウィリアムが、引き金を引いたシャーロックの心情を、その心理的負荷を理解できないはずがない。そしてそれはもちろん、彼に撃たせるしかないと気づいた時点で既に想定として頭の中にあったはず。だが、実際にミルヴァートンを撃ったシャーロックの憔悴具合は、恐らくウィリアムの想定を超えてしまっていたんじゃなかろうか。
これはシャーロックの変化だけでなく、この頃のウィリアムの変化(ものすごくざっくり言うと、告解シーンが優しさよりも強さに振れてきたのと、その後も人ならざるものの方面で戦闘力カンストしてきた)も絡んでくる部分なんですが、ウィリアムが罪の荷に潰されるほどに人殺しを重く感じているのは疑いようがないけど、同時に、ホワイトリーを刺殺したその直後に高らかに犯罪卿口上やれる程度には心殺せちゃうというか、中身ズタボロでもそれを抑えこんで歩けてしまうのもまた事実で(そこがこの人の不幸なとこ)。一方で特にミュのシャーロックは根っこの部分が真人間じみているし、そんなものは持ち合わせていない。ウィリアムがそこを見落としたとまでは思わないが、心を殺すことに慣れてしまいかつ色々すり減ってる状態のウィリアムが、真っ当な倫理観を持った人間が人を殺すことによって受けるダメージの程度を、見誤ったとしても無理はないように思う。
銃声の後、手を震わせ息を乱すシャーロックを目の前にしたウィリアムは、想定を超えて憔悴しきったさまに「このままでは彼は罪の意識で潰れてしまう」と確信に近い恐れを抱いた。
だからこそウィリアムは、彼を追い詰めるように銃口を向けるのではなく、ただ静かに笑って、約束を確かめるように「Catch me if you can, Sherlock」と告げたのではないか。計画のためというよりはウィリアム個人の意識の方で、至高の謎としての犯罪卿を演じてみせた。今や絶望の淵にいるシャーロックがそれでもこの道を走り続けられるように、その理由を与えた。捕まえられるものなら捕まえてみなさいと、あの日と同じ言葉で。
念押ししますが、これはあくまで私はこう思ったという話です。ただ私はここに至った時、それはそうだよなって思ったんですよね。だってウィリアムは、徹底的に与える側の人間なので。

さてその後、シャーロックのソロがまたとんでもないことになっていったのは前述の通り。ジョン君の前ではなんとか事前に用意してました感丸出しの台詞を言いきって歩いていたけど、留置所の扉が閉まった瞬間にもう立っていられないとばかりに崩れ落ちる。本当にね、この辺のボロボロ具合が回を追うごとに増してくので何度も見ていられないって思った。けれどこの座ってもいられないほどの、その重さに潰されそうなほどの罪の意識を身を以て知って初めて、シャーロックは本当の意味で罪の荷に潰れたウィリアムと同じ地平に立てるんですよね。「それでもこの想いは消せない」と何とか立ち上がり「おまえの心捕まえてやる」と叫んだその瞬間、ウィリアムが走り去っていった、謎の深い霧の向こうへと続く一本道がくっきりと浮かびあがっているのが、すごく印象的でした。
一方のウィリアム。こうなってくると、「俺がおまえを捕らえてやる」に浮かべる心からの笑みも、ちょっと見え方が変わってきます。大阪の頃とかは、どこか安心しているような――救いも赦しもない荒れ野でもその果てで君が捕まえて(そして殺して)くれるならそれだけで歩いていける、大丈夫、みたいな印象を受けてたんですが、東京後半はあそこでシャーロックがもう一度立ち上がったこと、捕らえてやると変わらない決意を抱き続けていることそのものに笑っているような、それこそ「君が僕の思う君で良かった」みたいな部分もあるのかなって思えてきたんですよね。まあその分「こいつの最終目的地はこの道の果てじゃなくておまえの心だぞ最後まで聞けや」も増すんですけど。

3. 満を持してモリ家の話をします

ここまでで既にだいぶ長い気はしているんですがしたいのでします。
⚠この先、原作の先の展開のネタバレを含みます。

この空の下(友情ソング)とモリ家の対比が惨い

キャラ別に行く前にまずこっち。
この空の下の照明が本当に大好きで。「その理由がやっとわかった、おまえに幸せになって欲しいからだ」でシャーロックの中のもやもやが晴れるのを表すかの如く空が晴れるように舞台全体が明るくなり、両岸を繋ぐ橋の上、互いの誓いとともにひとつの光に収束していく美しさといったらもう。
……なんですが、直前の千々に乱れてがバラバラになる4つのスポットライトだったことを思い出すと、情緒ぐっちゃぐちゃにされましたよ本当。明るく晴れやかなこの曲の直後に真っ暗な書斎がくるのも毎回臓器に悪かった。

ウィリアム

誰かが望む、必要とする姿になるのが悲しいくらい上手な人間。時に民衆を導く自由の女神、時に神さまそのもの、そして東京後半は地獄で唯一の道標。インタでも触れられていたのですが、Op.3がウィリアムを内側からみるというか、内面を窺い知るような曲が多かったのに対し、Op.4はウィリアムを外側からみる機会が多いこともあって、そうだったこの人こういう人だった、という気持ちを久々に思い出しました。初恋少女とか言っていられた2021年8月7日の我々、幸せだったんだな……頼むから人間でいてくれ。

ウィリアムについてはここまでで既に長々書いたところではあるんですが、それでもなおクッッソ長いので何項かに分けます:I hope、心の部屋、ウィリアムにとっての光

[I hope]
歌詞が特に印象的だった第一楽章のシャーロックソロに対して、その後のウィリアムのソロは視覚的に印象的だったというか、後半の聴覚情報と視覚情報のリンクが特に印象的だったなと。歪んだ世界に射す自分には眩しいほどの強い光、つまりシャーロックの軌跡を地上を照らすスポットライトの動きで表現するの、そこでもう舞台を愛する人間としての自我がめちゃくちゃ喜んでいたのですがその後がそれどころじゃなかったです。先ほどまでシャーロックがいた場所のすぐ傍に立つウィリアムが、「君に捕まえて欲しい」と歌いながらいつもぎりぎりのところでその光に触れない、触れられない。あと少し手を伸ばせば届くはずなのに、まるでその資格は自分にはないとでもいうように。
そうしてソロのラスト、(この表現が正しいのかわかりませんが)あれだけ盛り上がっていた演奏と歌声が急に小さくなり、罪深きこの僕を、とウィリアムが左手を見つめた瞬間の絶望感よ。ついにこの時が来てしまったかと、今作のウィリアムは既に血塗れの手の幻覚をみているウィリアムなんだと察して胃が冷えた瞬間に明かりが落ちるの、開始10分足らずで既にめちゃくちゃしんどかったわ。メインテーマでも引き続き、というか全編通してなんですが明確に血塗れの手の幻覚を見ていてきつかった。

[心の部屋]
モリアーティ邸でウィリアムが例のソファに座る時、彼の心の部屋だけがその場から隔絶されたように四角く照らされていたのがだいぶ精神に来ました。同じ部屋にいるはずなのに、ウィリアムの心の部屋に立ち入れる人間は、隣に座ることのできる人間はもはや誰もいない。「犯罪卿」の概念から皆が締め出されるように。Op.3後半公演の一幕(モリ家日替わりの直前)までは、ぎりぎり兄様だけは隣に座れていたのにね。
今回、ホワイトリー告解の「人殺しにまで堕ちる選択をしたのは私自身だ」を聞いたりパンフを読んだりして改めて考えたのですが、共に重き荷を負いて(モリ家日替わり直後のゴルゴダの歌)の「このさだめに導いたのは私だ、共に重き荷を負いてゴルゴダへの道を歩もう」に孤独の部屋に(風の歌)で「自分で決めたこのさだめ」と返したあの瞬間、ウィリアムは自分以外の最後の住人だった兄様も締め出して、真に孤独になってしまったんじゃないかなって。当時見落としていたのですが(白状)、心の部屋の四角い照明、この時に既にあるんですよね。歌い終えた兄様が、「おまえがどんな道を歩もうと私はおまえと共にある」と言いながらもその四角い部屋から出ていくんです。さらにその後、こころを抱いて(Op.3二幕)で兄様がもう一度「このさだめに導いたのは私」と歌い「すべてはお前の為に生きよう」と続けていますが、それに対するウィリアムの返答は(これは兄様ひとりへの返答ではありませんが)「君たちがとても大切だから、僕はただひとり」だったので……(書いててしんどくなってきた)
こちらは大佐の項で後述しますが、ウィリアムの心の部屋の番人こと大佐が守っているのも、あくまで主不在の空き家、孤独の部屋というのがね、もうね……
ラストナンバーのソロ、あの絶唱を終えた瞬間に心の部屋の鍵が閉まる音を初めてきいた日は、大袈裟じゃなく息が止まるかと思いました。凍りついたように蒼い照明が辛うじて落ち時の止まったその部屋の中、膝をついた身体の前で両腕を力なく垂らし顔を伏せたウィリアムの姿が、もう手枷をはめられ引きずり出された罪人のそれにしか見えないんですよ。悪魔なり救世主なり自由の女神なり、今までさんざん人ならざるものをやってきた人間の、その実際の姿があんまりにも惨めで。特に東京後半は最後の最後さえ道標やっちゃってたから、その落差で余計に。大阪の頃は哀しいとともに泣きたいくらい綺麗だなって思う気持ちで見ていたその後の笑みも、最後の方はなんか「人の子の笑みだ……」がかなりのウェイト占めてきてた。

[ウィリアムにとっての光]
シャーロック同様ホワイトリーも、ウィリアムにとっては光だったんじゃないかなと思っていて。原作では大佐が担っていた「犯罪卿が必要なくとも」という発言がウィリアムのものになっていたのは、単なる可能性の示唆ではなく、そうあって欲しい、そうであれば良いのにと希うウィリアムの本心の表れでもあったんじゃないかと。自分のようなやり方ではなく、正攻法で世界を変える光を、ウィリアムは見たかったのかもしれない。ホワイトリーを見るウィリアム、特に東京後半は辛い道の可能性を見据えて暗い声や表情をすることが多くなりながらも、やはり眩しいと感じる心がたしかにそこにあるように、彼を見る目に光が射すように感じる瞬間があったので。そう思うと、民衆がホワイトリーという光を失ったのと同時に、ウィリアムも彼にとって数少ない光のひとつを失ったわけで。ホワイトリーという希望の光を失った民衆の、その場に崩れ落ちてしまう者も出るほどのショックの大きさを考えると、自らの手で光を消し去ったウィリアムの受けた精神的負荷は如何ほどかと、思い返すたびに心臓が引き絞られそうになる。
ただ、本人にとっても我々にとっても悲劇的なことに、それでも一幕ラストの、あの犯罪卿口上をやれてしまうんですよねウィリアムという人間は。外から見ると美しさを感じるほどに強く見えて、でも内側はズタズタの限界でおそらく力のかけ方を誤れば簡単に崩れてしまう、だいたいクラックビー玉。特に東京後半は、ボロッボロで顔を上げられもしないホワイトリーの頬に手を添えて顔を上げさせる回とか、一度は顔を上げたものの再び潰れそうになるのをぐっと肩を掴んで目を見なさいってする回とか、慈悲深い主というより自由の女神みが強いというか、優しさよりも強さを感じる回が多く、かつ犯罪卿口上も人間離れした強さというか人智の及ばぬ何かになっちゃってることが多かったので、いっそ泣いてくれたらどんなに良かっただろう、がどんどん増していきました。これは大阪の感想でも書いたけど、風の歌ってやっぱりストレートに儚げなだけ幸せだったよな……(我々が)

そしてここまでで書いていないことに自分でびっくりなんですが、相変わらず歌が上手い!!
いやもはや歌が上手いことに慣れてきたとか思ってましたが全くそんなことはなく。つくづく歌が上手い、そして有無を言わさぬ主役としての圧倒的な華がある。やっぱりミュージカルなら歌声で戦闘力を示してもらえるのがいちばん興奮するんですよね。銀河劇場の2階A列はいつでも最高なんですが、モリミュの銀劇2階A列の最高なところは鈴木勝吾さんの歌声が一直線に飛んでくるところです。

ルイス

子どもでいられたからこその強さと素直さが見えた末弟。

もうね、そこかしこで言われてると思うけど、M!!!!!
まずこれです。真っ直ぐ通る歌声、ラストナンバー終わりのあの立ち姿、完全に真ん中に立つ人のそれなのよ。当時ご本人も配信で触れてた記憶があるんですが、Op.3から本当に歌声が頼もしくなって。その頃からずっとルイス一慶山本Mが真ん中に立って歌う日まで死ねないと言い続けてきたんですが、今作はTwitterで触れられていたように、ウィリアムを思わせる突き抜けるような高音まで加わっていて。なんとしてもMとして真ん中に立つ彼を観たい、改めてそう思わせてくれる完璧なルイスでした。

とはいえ、これは先の展開を知っているからこその感想であり。覚悟してはいたけど、辛くて胸が締め付けられるシーンもめちゃくちゃ多かったです。

「殺してくれるはずさ」を聞いた瞬間のあの目とかね。いやもうひっどい兄過ぎて。兄の希死念慮もだけど弟の絶望の方がやばいでしょ。
愛する家族を失えば清廉潔白で後ろ暗いところが何ひとつとしてなかったホワイトリーですらその手を血で染めてしまうほど心にダメージをを負うし追い詰められるのだということを目の当たりにしたその後に、血の繋がった弟の前で「彼が殺してくれる」って口にする兄、あんまり過ぎる。これ、言いながら明確に首に手を添える回とかもあって、多分斜め後ろに立ってるルイスからも完璧には見えずとも察せられたと思うんですよね。惨い。
それだけ心理的に限界なんだろうなというのがわかるだけに余計辛い。でもね、あなたにはもう死しかいないかもしれないけど、弟にだってあなたしかいないんですよ……
あとここのシーン、Op.5の告知映像にばっちり使われてて心臓ひゅんなったわ。勘弁してください。

Op.2ぶりの兄さんソング通称兄ソン、あるって聞いた時はめちゃくちゃ喜んだのですが、まあ当然蓋を開けたらそれどころではありませんでした。
この曲、ウィリアムの心の部屋のソファに一際強いスポットライトが射すのが初日からすごく印象的なんですが、一緒に歌っているフレッドが空間全体を見ている一方、ルイスは明らかにその光を見つめている時間がめちゃくちゃ長い。はじめのソロパートはその光に語りかけるように歌い、階段を降りてくる時もひたすらその光を見つめて降りてくる。その光の捉え方の差が、ルイスは他の皆と違ってウィリアムがいる世界しか知らないし、兄さんがいるところが世界なんだよな、を加速させてきて、この先のことを思うとひたすらに胸が痛かったです。
ミュの……というか山本さんのルイス、スタスタスタ……って捌ける(伝われ)のが狂おしいほど好きなんですが、この曲の捌けだけ足取りが重くみえるのが余計しんどかった。

……で、これを踏まえての一幕ラストですよ。
死の間際のホワイトリーの回想の中、「あなたが犯した罪を僕が被ります」「僕こそが犯罪卿だからです」と原作では「我々」って言ってたはずの部分をことごとく「僕」と置き換えるウィリアムに我々がおい!!と思っている時、その瞬間のルイスのウィリアムを見る目。「あなたが犯した罪を僕が被ります」の時は隣の兄様も一緒にウィリアムを見るのに、「僕こそが犯罪卿」の時にウィリアムを見るのがルイスだけというのが本当にきつかった。ウィリアムがひとりで死ぬことを、アルバートはもうわかっているし受け容れているけど、ルイスはそうじゃない。あの目に宿った感情をどう表現して良いものか、実は未だに悩んでいるんですが……信じられない、信じたくないというようなあの目がすごく胸にきた。
原作もミュも、ウィリアムははじめからひとりで死ぬつもりだったわけですが、ミュはルイス視点ですら既に綻びが見えている分、国会議事堂前が余計につらい。冒頭でも書いた通りなのですが、「街が人が責め立てる、犯罪卿はこの国の憎き敵に」と第三者のような視点で状況を歌うルイスの、そこから最終ロングトーンで照明が落ちるまでの表情や兄から目を背けるように顔を伏せる姿が本当に痛ましくて、心底苦しかった。

一方で、二幕のルイスはこの項の冒頭に書いたように、子どもでいられたからこその強さと素直さ、真っ直ぐさがみえるルイスだったなあと。

「兄さんひとりの名が広まるのは計画通りではありません」ってあの発言、一幕で「兄さんひとりが思い詰める必要はないのでは」と言った時よりも少し声が低く聴こえて、かつこの時は断定というのが、兄に逆らう覚悟のように感じられて。その後の兄の頑なさを思うとそれでも届かないというやりきれなさもあるんですが、正直「そうだぞもっと言ってやれ!」って思った。

その後の千々に乱れての歌声に関しては既に若干書いた通り、「ウィリアムがいないモリアーティ陣営では道を切り拓く役割をルイスが担うんだ」という興奮、そして同じくらいの苦しさがあったのですが、衝撃的だったのは「兄さんどうかいなくならないで」
……いや、知ってたんですけど。ルイスの核にあるのはただそれだけというのはもちろん。でもOp.2の業火みたいなワードセンスした(まあモリミュ全体的にそうなんだけど)兄ソンを知っている身からすると、この幼いとすら感じるような素直な言葉選びが、真っ直ぐさが逆にぐさぐさきた。兄さんがいなければ世界は永遠の闇、兄さんのいない世界に生きる意味などない、(これは今回ですが)兄さんは僕の生きるすべて、語弊しかなくて誠にすみませんなんですけど圧強めの詞の数々の核となるのは「僕の前からいなくならないで、置いていかないで」とただそれだけの、子どものような願いなんだと改めて突きつけられる悲痛さがあった。あと最後の舞台中央奥でのポーズが48話扉絵とダブってつらかったです。

そして冒頭の話に戻るのですが、ラストナンバーのルイスがそれはもう頼もしい。
歌声もなんですが、ものすごく悲痛で痛ましかった一幕ラストの曲とは対象的に、最後まで目を逸らすことなく真っ直ぐに前を見ていて。締めのロングトーンではかつての兄と同じように、ひとり両腕を掲げていたのが本当に印象的でした。

改めてなんですが、ルイスの歌声はもうOp.1や2の頃のような細さや不安定さはなくて、兄に意見する声だってちゃんと芯があって、もはやモリアーティ家の中核となりつつある。それでも「大丈夫だよ」しか言わないウィリアムと、あとホワイトリーとサム君を見ていたら、「サム君と違ってとうの昔にハンデがなくなっていてもどれだけ強くなっても、ウィリアムにとってはいつまで経ってもルイスは弟なんだな」って気持ちにさせられて、もう本当に兄という生き物は……ですよ。
でもルイスのこの強さと素直さは、やっぱりここまで兄が大事に大事に愛して守ってきたから、そうやってちゃんと子どもをやれていたからこそだっていうのもわかるので。原作空き家の頃からずっと言ってるんですが、大人になるには子どもの過程が絶対必要なわけで。
いややっぱりOp.6、絶対みたいな……
「格好良いよ」って言ってもらおうな……

モラン

ウィリアムの心の部屋の番人。

ソロ曲、あれなんて曲名なんだろう。もう歩く道といい歌詞といい、孤独の部屋に(風の歌)とのダブり方が圧倒的過ぎて、もはや私の中での仮題が「孤独の部屋を」になりつつあるんですが。
あと何と言っても照明。アルバートさえ締め出された四角く浮かび上がるその部屋の中、例のソファにOp.4で唯一座るモラン。ただし部屋の主は不在で、まさに孤独な空き家。その孤独に寄り添いたいと歌う姿が本当に番人としか言えなくて。ソファから立ち上がると孤独の部屋から続く一本道が現れて、それは風の歌でウィリアムが歩いた道そのもので、モランは完全にその軌跡をなぞる形なんですが、途中で道を表していた光が消えるんですね。消えるというか、道だけを浮かび上がらせていた照明から舞台を全体的に青く照らすような照明になり、あれだけはっきり見えていた道が舞台上から消える。「おまえはいく、さだめの道を」とモランが歌うその時に、もうその道は彼の手の届かないものになっている。
多分この人は、一度心を失くしたからこそ、魂の居場所を失くしたからこそ、ウィリアムの心の痛みが誰より理解できるし寄り添いたいと願ってしまうんですよね。その心を守ってやりたい、かつて自分が救われたように救ってやりたいと思うからこそ、さだめの道の果てに何があるかを理解した上で、それでもその道を守ってやりたいと歌う。もはやそうすることでしか、ウィリアムの孤独な心を救う術がないことがわかってしまうから。この先のさだめの道を自分は一緒に進むことができないと、置いていかれるのだとわかっていて、それでも最期に至る道のりだけは守らせてくれと歌う姿が、ずっと目に焼きついています。

で、これはルイスの次に兄様でもなくデュエットしたフレッドでもなく大佐の項を設けた理由なんですが、ルイスがどんどん強くなり前に進む確信が持てるのと対照的に、モランの印象は全然変わらないというか、進めていないんですよね。言ってることはずっと変わらないんだけど、相反する感情をずっと奥底に飼い続けていて、それを押し殺したまま歩いている感じ。
一幕ラストの曲は先に述べた通りルイスの痛ましさが本当につらいんですが、モランも一瞬ものすごく苦しそうな、辛そうな顔をする瞬間があって。でもルイスと違ってすぐに前を向く。
千々に乱れてでは「おまえを、おまえのいく道を守る」と変わらぬ決意を口にしながら、ひとりだけその場に座り込んでしまうし、顔を俯けてしまう。
ラストナンバーも、地獄の淵を睨みつける勢いで見据える一方、「運命の車輪は止まらない」で掲げた手をおろすと共に目線まで落ちるし。これは兄様の項でも書くんですが、隣の兄様が完全に覚悟の据わった目をしているので余計に目立つんですよ。
ソロの時点でもう……ではあるんですが全編通して、そりゃ空き家があんなことにもなる……というのが、既に見えるようでした。

ところでミュ……というか井澤さんのモランって、198cmの元軍人としては声が優しいというか甘くて、それが原作比でも他のメディアミックス比でも感情を表に出してくるミュ(まあミュージカルってそういうものって話ではあるんですが)にすごく合うなと思うのですが、今回もウィリアムを想う気持ちがこの上なく声に乗っていて。
あと、甘いけど芯はある声だなと思うのに、一瞬の声の揺らがせ方(もうちょっと適した表現があると思うのですが思いつかないので一旦これで)がめちゃくちゃに上手いんですよね。アルバートとの会話での「あいつの望み通りにさせてやりたい」とか。それが余計にみている側の苦しさを増してきて。

そして書くタイミングを逃し続けてここまで来てしまったのですが、別邸アクションシーンの翻るコートが最高でした。初日脚が長いことしかわからんとか言ってごめん。

アルバート

三年間塔に閉じ篭っていただけのことはある(あえて言葉を選ばずに書く)。
兄様と大佐、最終的に言ってることは近い(ウィリアムの意思を尊重する側)ものの、大佐が相反する感情を滲ませまくっている一方で兄様はそんなことなくて、むしろ誰よりも覚悟据わってるなという印象。「深き煉獄に落とし給え」を聞いた瞬間に「生きてこの身を焼かれよう」を思い出したのですが、千々に乱れてでもラストナンバーでもまさにそんな目をしている。だから他のモリアーティメンバーと違って、見てて辛いと思うことはほぼなかった。
まあこの人すべてはウィリアムの御心のままにって人なので仕方ないんですよね。主(しゅ)が死にたいと言うのなら死なせてやるしかない。「死なせてやりたい」に至る理由が、大佐の場合「それしかウィリアムの心を救えるものがないから」だけど、兄様の場合もちろんウィリアムの苦悩も理解しているんだけど、決定打が「ウィリアムがそう望むから」でしかなく、身も蓋もない言い方をすればそこで思考停止してるんですよ。
方向性は違えどウィリアムも大概自分じゃ何も決められない人(本人はさんざん自分で決めたと言うけど、その意思決定プロセスの起点に常に他人がいる)なので、なんというかその、似たもの兄弟……

ステンドグラスと讃美歌、完全に教会で空き家を思わせるのもそうなんですが、単純に賛美歌の間のオルガンの音色と久保田さんの歌声の相性がめちゃくちゃ良いなと。ふわふわしているわけではないけど輪郭が柔らかくて、聴いていて落ち着く声で。まあとうとう天啓って言いきっちゃったよこの人……と思うと全然落ち着いている場合ではないのですが。ウィリアムを想う時に天を見上げるんじゃないよ。
Op.6(ある前提)でまたオルガン登場してもらえると良いな……あの日ウィリアムに運命をみた礼拝堂、何が何でもやって欲しい。

そして共に重き荷を負いて(ゴルゴダ)もそうでしたが、ゲッセマネも公演ごとの感情の振れ幅がすごかったです。
一貫してゲッセマネの園でひとり罪の苦しみに悶える主に対する懺悔の歌ではあるのですが、十字を切る回、嘆きに振れてる回、怒りに振れてる回……
ゴルゴダの時、ウィリアムをこの道に導いてしまった自分を赦せないというように自分で自分の手を殴りつけるような動きをする回が何度かあってすごく記憶に残っているのですが(確認したら大楽がちょうどこれですね)、今回もそういう回があって。あと天に伸ばした手を怒りを鎮めるように握り締める回とか、唇を噛むような震える息の音が聴こえる回、かと思えば嘆きに振れてて涙を流す回もあり、毎公演目が離せませんでした。立ってるだけで貴族と名高いアルバート秀敏久保田さんの頬に涙が伝うあの瞬間、本当に芸術の域だったな……
この兄様がOp.6の塔でどんな懺悔曲を歌うのかと思うと、かなり楽しみだけどだいぶ怖いですよね。

千々に乱れて終盤とラストナンバーは先に書いた通り、真っすぐに前を見据えていて完全に覚悟を決めた目をしていて。
「呪ってくれ」の弱々しさに対して「進めこの道を ウィリアムが決めたなら」のまるで号令の如き力強さよ……

讃美歌はウィリアムの意思を伝えるものだから、神聖ささえ感じさせる穏やかな声で歌えるし、計画を予定通り進めることもまたウィリアムの意思で、それは天啓に等しいから強く歌い上げられる。けれどウィリアムは「自分で決めたこのさだめ」と、罪を兄と分け合う気などない。ウィリアムが憎んでくれることなどないと、呪ってくれることなどないとわかっているから、それが叶えられることのない願いだとわかっているから、その声は時に震えるほどに弱々しいものになってしまう。代わりに信じてもいない別の神に「煉獄へ落とし給え」と叫び、どうかウィリアムの代わりに己を罰してくれと時に十字を切る。
ウィリアムの意思が絡むかどうかでここまで差がつくの、本当にこの人はウィリアムという心の盾あってこその人なんだなあって。

あと何と言っても別邸アクションシーン、本当にありがとうございました。
初日めちゃくちゃびっくりしました。兄様も足が出るという事実、それだけで最高です。

フレッド

このフレッドがカークランド邸からの内通に至るんだと思うと楽しみで仕方ない。

長江くんの歌の上手さは知っていたので端から期待していたのですが、JMFで第一声を聴いた瞬間に「勝った!」と確信したんですよね(何に?)
わりと歌声が細めで、でも伸びやかで、優しくて真っ直ぐな最年少であるフレッドにぴったりだなと。

あと一幕冒頭の「破綻してしまいます」の掠れ具合が切実さを感じて最高に好きです。

ルイスとのデュエットについては先にちょろっと書いてしまったのですが、ルイスが例のソファに射す光を見て「心から慕う兄さん」と歌う時、フレッドは「この道を共にいかせてください」と走り出し、その後ふたりの「兄さんと/ウィリアムさんと共にいられるなら」が重なるのがすごく印象的で。ルイスが兄さんを慕っているから兄さんと同じ道を行きたがっている一方(つまり兄さんの思想云々ではなく何よりもまず兄さんの存在ありき)、フレッドはウィリアムの思想に共感するからこそウィリアムを慕っていて、だから着いて行きたい、同じ道を行きたいんだなというのが良くわかるシーンでした。
あとは月夜の誓い(Op.2)でもこころを抱いて(Op.3)でもこの道をあなたと、と歌ってきたフレッドが今回も「僕も同じ道を」「この道を共にいかせてください」と繰り返すの単純にめちゃくちゃ良いなと思ったので、そういう意味でもJMFの選曲はアツかった。

それだけに千々に乱れての「ウィリアムさんを信じる、信じなきゃ」が余計につらくて。声の悲痛さといい泣きそうな顔(これは特に後半公演に顕著だった気がする)といい……
「信じなきゃ」は「信じられない」の裏返しなんですよ。
Op.5はなんと言ってもカークランド邸があるので今ここでこれを聴けて良かったと思う気持ちもありつつ、つらいもんはつらい。でもやっぱりあの声と表情を観たら、期待せずにはいられない。

それと別邸アクションシーン!
そう、長江くん他所で何回も観てるはずなのに、JMFで出てきた時「ちっちゃいな!?」ってびっくりしたんですよ(ごめん。他がでかいんだわ)
ただそれがアクションに活かされていて、抱えられちゃうのに小柄……!って思っていたらその後わりとドスッと刺しにいく。最高に痺れました。

内通組の声の相性がめちゃくちゃ良いことも判明したので、ただでさえ楽しみだったOp.5が余計に楽しみになりました。
いや馬車ソング、絶対欲しいな……

おわりに

ということで、Op.4の感想まとめでした。ここまで2万字近くお付き合いいただいた方、もしいたらありがとうございました。
いやまだ書き足りない部分もあるんですけど……マギーさんの大人ゆえ状況がわかってしまうし立場的にも何もできないしてやれないもどかしさとか、学生でモリアーティ先生って言ってた蓮井くんが騎士でホワイトリー先生って言ってるのなんか良いよねとか、シューガハヤシさん今世紀一キャス変しないで欲しいバイオリニスト過ぎるとか……

最後にひとつだけ。
今回ホープの対になる構造が出たことでふと思ったんですが、ホープの最後の願いもウィリアムの最後の願いもシャーロックはかなえてくれないんですよね。本来相手の希望より自分の信念を優先する人なんだなと思うと、ミュの別邸で「リアムの望みのため」が最後の一押しになってしまった(と私は思っている)の、本当に一大事だわ。ミュのジョンくん、右ストレートの責任が流石に重過ぎる。
ああなったからには兄様とウィリアムの[導いたのは私/自分で決めた]を継承して、僕が誘導したと主張するウィリアムと俺が決めたことだと主張するシャーロックでひと悶着あって欲しい気持ち、正直だいぶありますね……

とりあえず今は、運命の車輪が回り始めたこの時間、最後の事件が告知されていることが嬉しくてなりません。
進む先が奈落の底でも地獄の淵でも馬車はもう止まらないけれど、その馬車が運命を覆す約束の場になることも、我々は知っているわけで。さだめの道の果て、その結末をしっかり見届けたいと思います。
行くぞOp.5!

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