物語を内面化してしまうことの危険性について

ライターという仕事柄、人にインタビューをさせていただく機会がときどきある。そのかたのこれまでを振り返るような種類のインタビューだと、“人生の転機”的なものについてお聞きすることも多い。

(たとえば)「そんなに辛いなかでどうして仕事をがんばれたんですか」とか「ひきこもっていた部屋から出た日のことを覚えてますか」というような質問をすると、みなさん「うーん……」と考え込まれる。それから「実はこういうことがあって」とか「なんか気づいたら徐々に」とか「あんまり覚えてないですね」とか、なんらかの言葉を返してくれる。

「なんか気づいたら徐々に」とか「あんまり覚えてないですね」は言われると一瞬ヒヤッとするのだけど(自分の質問の仕方が悪いケースもあるので)、あ、いま思ったことを素直に話してくださってるんだな、と安心もする。むしろちょっと焦るのが、どんな質問をしても「実はこういうことが」とめちゃくちゃきちんと返ってくるケースだ。


「見出しになる言葉」ばかり言ってくれる人

大学時代の友人に、音大入学を目指して小さいころから厳しいピアノのレッスンに通い続けていたのに、あるとき、お風呂に入っていたら突然「もういいや」と思ってピアノをやめてしまった、という人がいる。

彼女はその日を境に音大以外の大学に入ろうと決めて受験勉強を始め、それからはピアノにいちども触っていない、という。彼女とは10年近い付き合いになるのに、私はたしかに彼女がピアノを弾くところを見たことがない。

……というような劇的な話はたしかに世の中に存在するのだけど、実はそういうできごとってすごく稀だと感じる(友人自身も「お風呂入ってたら急にってなんかドラマチックでうそっぽいよね」と言っている)。

話を冒頭のインタビューに戻す。

こちらがどんな質問をしても「実はこういうことが」と語ってくださる人には、取材や講演などのお仕事を受ける機会が頻繁にあるような“語り慣れている人”が多い。なかには、語ってくださるエピソードのほとんどすべてがキャッチーで面白い、みたいなかたもいらっしゃって、お話を聞きながらゲラゲラ笑ったり涙ぐんだり、ときには「見出しになる言葉が多くてありがたいな」とか考えたりしてしまう。

ただ、冒頭に「ちょっと焦る」と書いたのは、その言葉がインタビュー用の型に合わせて刈りとられた語りであればあるほど、その“型”からはみ出る言葉を相手のかたから聞くのがすごく難しくなるからだ。語り慣れた人が語り慣れたエピソードについて話すとき、そこからすこしこぼれるような質問をしても、どうしても相手の語りがその“型”に戻ってきてしまう、ということは往々にして起こる。

もちろん、劇的なエピソードの劇的さが事実であればなんの問題もないし、変な話、(できれば素直な気持ちに基づいた話をしてほしいのだけど)それが“インタビューというコンテンツ用の”エピソードで、ご本人がそういう面をメディアに載せたいと思ったならそれはしかたないと思う。怖いのは、そのかたがインタビューというコンテンツ用の話をしているという自覚なく、その物語を内面化してしまっているときだ。


摂食障害の当事者の語りを通して

そういうことを考えるようになったきっかけのひとつに、昨年読んだ『なぜふつうに食べられないのか』(磯野真穂)という本がある。人類学者の磯野さんが過食症・拒食症といった摂食障害の当事者6名に4年間にわたるインタビューをおこない、その語りを通して「食べる」ことを探るというテーマで、読んでよかったとこんなにも感じる本は久しぶりだった(摂食障害の当事者はもちろん、周囲に摂食障害に悩んでいる人がいるかたはぜひ読んでほしいです)。

この本のなかに武藤さん(仮名)という、拒食症に悩む女性が登場する。端的に言うと、彼女は拒食を繰り返す理由として、母親との共依存的な関係や父親に甘えさせてもらえなかったという思いがあり、つらいという気持ちをやせることによってアピールしていた、と語る。

一時期、摂食障害の原因として臨床家に広く受け入れられた考え方に「家族モデル」というものがある。これは母親の子どもへの過干渉などが摂食障害を生み出す子どもの心理をつくるという考え方で、現在では、摂食障害はひとつではなく生物的要因も含めた複数の要因が絡み合うことによって発症する、という考え方が主流になってきているのだけど、それでもこの「家族モデル」的な考え方はまだ脈々と息づいていると著者は言う。

著者は、武藤さんの拒食の体験にまつわる語りが、“専門書に書かれているそれと瓜二つ”であることに着目する。

実は彼女はインタビューの当初、「彼氏と別れてうつっぽくなり拒食がひどくなった」という体験を著者に語っていたのだけれど、専門書を読んだり拒食症の当事者としてミーティングのゲストスピーカーになるといった経験を積んでいるうちに、その語りがだんだんと母娘の関係を中心にした「家族モデル」に寄ってくる。そして武藤さんの語りはやがて、“拒食の状態というのは、親に受け入れられるための「チケット」”だったというものに変わる

本のなかには、ほかにも「家族モデル」を内面化することで摂食障害と向き合い、数年の時間をかけて回復していった人の体験談が出てくる。著者は、家族モデルの利点は「こうなったのは自分のせいではなく親のせいだ」という救済を当事者に与えられる点と、親子のエピソードは誰にとっても発掘しやすいものだからこそ「そういえばあのできごとが」と物語に転換しやすい点だと分析する。けれど、「悪いのは親」「親が変われば摂食障害から回復できる」という救済は、逆に言えば、その役を自分から降りない限り続いてしまうという問題をはらんでいる。

……と、本についての話が長くなったのだけれど、ここからはごく個人的な実感として。物語を無自覚のうちに内面化してしまいやすい人というのは、摂食障害のかたに限らず多いと感じている。

特に、学習意欲の強い人やサービス精神の旺盛な人は、他者から聞いた物語(たとえば「家族モデル」に沿ったエピソード)や自分自身でこしらえた物語(たとえばインタビュー用のネタのようなもの)を語り続けるうちにそれが固定化されてしまい、自分が過去に“本当に”そう感じていたかのように思ったり、自分のなかで未消化のはずのできごとがなにかをきっかけに劇的に変化・昇華されたという感じ方をしてしまったりする危険性が高いように思う。


「話したら壊れちゃいそうなことは話さなくて大丈夫です」

言うまでもなく、この話はインタビューを受ける立場の人にだけ向けて書いているわけではない。自分の体験を人に語ったり、それをエッセイのような文章にしたりするとき、私たちは自分でつくった物語に飲み込まれてしまっていることがないだろうか、という話をしたい。

たとえば、「うちの親がやばくてさあ」という話を誰かにしゃべるとする。母親に家から閉め出されたり手をあげられたことが多かったんだよね、と語ると、「それって毒親だよね」と聞き手が言う。毒親、という概念を知った語り手は、母親のことを人に話すとき、「毒親」をベースにしたエピソードを積み上げがちになる。それが続いていくと、いつの間にか母親=悪魔、みたいになってしまったりする。語り手と母親とのあいだには、本当はもっと複雑なそれ以外の関係があったかもしれないのに。

きのう、「みんなのひきこもり」というメンタルヘルスセミナーでハイバイの岩井秀人さんとお話しさせていただく機会がすこしだけあった。岩井さんは自らのひきこもり経験や親子の関係を演劇にして繰り返し上演され続けているかたなのだけれど、近年おこなっている活動のひとつに「ワレワレのモロモロ」という、出演者が自分自身の体験を戯曲にして演じるワークショップ型の演劇があるのだという。

そのなかで、家族に対し終始暴力的な態度をとっていた父親に初めて反抗的な言葉をぶつけたまさにその日、父親が亡くなってしまったという衝撃的な話をされた人がいたそうだ。そのかたは自分の言葉が父親の死につながったのではないかという自責の念を長年抱いていたのだけど、ワークショップのなかでそのできごとが“喜劇化”(父親の死体が側溝を流れていく様子を、床をツルツル滑る演技でどうにか再現した、という話には不謹慎だけどたしかに笑ってしまった)されていくうちに救いのような感覚を覚えたという。

その話に嘘はないと思った。思ったのだけど、たぶんそれは岩井さんというフィクション化のプロがいる場だからこそ成り立ったできごとなのではないか、とも感じた。実際に岩井さんは、ワークショップの参加者から演劇のもととなる体験を募るとき、「話したら壊れちゃいそうなことは話さなくて大丈夫です」と毎回伝えていたというので、そのバランスは特に強く意識されていたのではないかと思う。

帰り際、岩井さんに(拙いしゃべりで)自分の体験を人に語ることと物語の内面化についての話をさせていただいたとき、岩井さんは「自分は、演劇を上演したそのあとのお客さんや読者との対話を重視している」とおっしゃっていた。「書くという行為は、それだけで終わらせるとトラウマを固定化してしまうこともありますよね」という言葉に、ああそのとおりだな、と思った。

人との対話は他者が変わってゆく限り変化していくけれど、いちど書いてしまったことは変化しない。だからこそ、自分にとってまだ「壊れちゃいそうな」段階にあるできごとを書くという行為には、それなりの覚悟が必要になってくる。


あなたは(私は)コンテンツではない

私は仕事でエッセイを書いているけれど、そのなかでたとえば過去に受けた性被害の話とか、対人恐怖症である話なんかもすることがある。そういうトラウマやメンタルの不調にあたる話をするときは、その問題と自分がどのように向き合い、いかに立ち直ったか、という“回復の物語”を求められがちだ。文章を読んでくださる人も、もしかしたらそういう話を求めているのかもしれない、と思うこともある。

けれど、実際はまだ自分のなかで消化しきれていない感情をさも克服済みのできごとであるかのように語ったり、実際に感じていた気持ちと乖離しすぎたことを書いたりするのだけは、危険だからやめよう、と決めている。個人的には、自分の気持ちを客観視できない可能性が高いので、いままさに渦中にいてめちゃくちゃ傷ついているできごとについても極力書かない(書いても人に見せない)ようにしているのだけど、このあたりは書き手のポリシーにもよると思うのでなんとも言えない。

ただひとつ強めに言いたいのは、私は(そしてすべての書き手は)文章というコンテンツを生み出すことはあっても、コンテンツそのものではないということだ。

たとえば誰かが書き手の(あなたの)個人的なエッセイを読んで「おまえは甘えているだけのひきこもりだ」と言ってきたとしても、「つらい思いをしましたね。その体験はパワハラの被害にあたるのではないですか」と言ってきたとしても、書き手自身がその意見を内面化させて「ひきこもり」や「パワハラの被害者」になる必要は、自分が望まない限り一切ない。

人の言葉から新しい視点を得ることは大事だけれど、それと同じくらい、他者からの要請や、他者のためにある物語を素直に飲み込みすぎない注意力のようなものも大切だと思う(私は自分の書いたエッセイを「自分のことみたいだ」と言っていただけると本当にうれしいのだけど、同時に、書いてあることのすべてを読んだかたが内面化しようと思いませんように、とちょっと心配になったりするご感想もあったりします)。

もしこれを読んでいる人がこれから自分の体験を「書く」「語る」ことがあるのなら、自分は誰かからの要請を内面化していないだろうか、これをいまから書く/語ることで本当に傷つかないだろうか、と自問自答してほしい、と思う。

いちど語った言葉は死んで固定化されてしまうけれど、語り手は生きていて、生きているということは変わっていくということだ。変わったなら、変わっていく過程をまた語りなおせばいい。だからどうか、ひとつの物語だけに縛られることは選ばないでほしい。

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