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La Vie en Rose

私は庭に出て、お気に入りの椅子に腰掛けた。
「今年も綺麗に咲いたよ」
目の前には手入れの行き届いた白いバラが咲いている。
「一緒に手入れをしていた時よりも、綺麗だろう?」
私は空を見上げて微笑む。

優しい眼差し──その瞳は誰を見つめる?
美しい微笑み──その唇は誰のもの?
伸ばされた腕──その腕は誰を包む?

 その愛は、本物だった?

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広いホールには楽士が奏でる静かな音楽と、着飾った男女の談笑が流れている。私は、父と共に招待客への挨拶をしていた。
「本日も盛況ですな」
「お招きいただき、ありがとうございます」
交わす挨拶や笑顔の裏に、それぞれの思惑が透けて見える。『成り上がり商人』と陰で父が呼ばれている事を知っているから、特に驚きはしない。そこに群がる者とて、たいした差はない。
「絢子さんは、大人たちの中で退屈じゃないかな? 孝範、庭を案内して差し上げなさい」
親同士が決めた婚約者の名前が聞こえ、私は父の方へ顔を向けた。

庭の一画に植えてあるバラは、ようやく咲き始めた頃だった。絢子はそこで立ち止まり、服が汚れることも構わずに屈み込んだ。
「わたし、バラを育てたいと思っています」
パーティーに連れられて来る様なお嬢さんが、バラを育てる?
突然言われた言葉に驚いて、その顔を見返した。
「孝範様の妻に相応しくないと思われるなら、このお話お断りください」
バラに注がれる少女の真剣な眼差しには、躊躇いがない。
「どうしてバラを育てたいと?」
「母が咲かせられなかったバラを咲かせたいんです。母が亡くなってバラは処分されてしまったので、一から始めるのですが…」
凛とした蕾の佇まい。破蕾までの過程が楽しみな美しさがある。
この縁談を破談にするのは、両家にとってマイナスしか残らない。ならば、その夢を私が応援するのはどうだろう。知識豊富な庭師を招聘する事も、苗木を手に入れる事も、仕事柄容易い。
「絢子さんがこの庭を素敵なバラ園にしてくださいますか」
翌年、15歳になるのを待って私は絢子と婚姻した。

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人生は禍福得喪。全て順風満帆などない。
絢子はバラの育種に取りかかり、私は父から託された新たな事業に乗り出した。事業はなかなか軌道に乗らず何度も頓挫の危機に見舞われたが、それを乗り越える度に少しずつ力をつけ、二年かけて良い結果を出す事が出来た。
業績が安定し始めた頃──『アヤコサマトユキト シュッポンス』──滞在先に届いた電報に、私は愕然とした。仕事を部下に任せて取り急ぎ帰京し、親戚や友人に行く先を知らないか尋ねたが、誰からも二人の情報は得られなかった。
思うようにいかないバラの育種に嫌気が差した? 簡単な事ではないと覚悟して始めた育種だ。それはないだろう。長期の不在の間に、いったい何があったのだろうか…。
何もわからぬまま、時だけが過ぎていった。

雪人は招聘した庭師の弟子だった。早くに両親を亡くして親戚に引き取られたが、環境の変化に馴染めず、両親の友人だった柳下が預かって庭師として育てたと聞いている。そんな生い立ちも影響しているのか、初対面の雪人は表情が乏しく、黒目がちで底が見えない井戸の様な目は、深い愁いの色を帯びていた。
柳下は「庭師の仕事についているかも…」と庭師仲間を尋ね歩いて二人を探してくれた。十五年経った今でも、時間が許せば仲間からの情報を得るために動いている。
主人である私がとっくに諦めているというのに。

 私の心を捉えたまま
 あなたは去っていったから
 時は止まったまま
 終焉を迎えるのだろうか

幸せに、笑っているかい?

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差し込む光で真っ白な壁が輝いて見える病室で、ベッドに横たわる絢子は透けそうな程青白い肌をしていた。ドアを開けて入ってきた私の姿を見て驚いている。
「久しぶりだね。座ってもいいかな?」
返事を待たずに見舞い客用の椅子を枕元に置いて座った。日焼けを厭わず庭を動きまわっていた頃の、溌剌とした姿はない。
「雪人さん…知らせ…てしまったのね…」
何年か振りに二人の事を思い出した翌日、雪人から連絡があった。医者に『会わせたい人に連絡を』と言われた、と。
「バラ、咲かせられたわ」
艶のない、乾いた声だった。
「夢が叶ったね。おめでとう」
「庭をバラ園に出来なくてごめんなさい」
私は首を振った。
聞きたい事がいっぱいあった。言いたい事もいっぱいあった。
でも、もういい。この言葉だけでじゅうぶんだ。
「プロポーズの言葉、覚えていてくれただけで嬉しいよ。ありがとう」
本当は、こんな姿を見せたくなかったのだろう。どんなに見つめても、絢子は視線すら合わせない。
「庭は、これから絢子さんの作ったバラで一杯にするよ」
少しだけ、絢子の表情が動く。口の端を引き上げ、目尻が下がった。
「記録…は雪人さんに、預けてあるから…バラ…の名前、付けてあげ…て」
それが絢子と交わした最後の言葉だった。

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 抱きしめ
 抱きしめられ
 愛の囁きは
 私を乱し
 バラ色に染め上げる

バラ色の人生など、存在しない。
存在しないから、人は夢見て求めるのだろうか。

 残されたのは
 『想い』だけ

大切な人は皆、旅立って行った。

私は黙々と『雪人』の世話をする

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