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「砂」を知らなければそれは無数の差異

1週間ぶりに近所の小学校へ行った。先週はかろうじて咲いていた枝垂桜はすっかり緑、花が散ってスカスカしていたソメイヨシノもこんもりした緑、とにかく全ての木が緑になってかなりボリュームを増していた。

人の社会はコロナ前後で一変した感じがあるけれど、世界全体としては春から初夏になることで起きている変化のほうがずっと、変化の質も量も大きいのだろうと思う。

とはいえ人が生態系に及ぼしている影響も計り知れないはずで、今朝は起きてすぐに、「これはアントロポセンの序章に過ぎないのかもしれない」と思った。威力を増している台風や山火事など、局所的には起きていたことの初めての世界的な事態。人のやってきたことが人に跳ね返ってくる時代。そう思ったことをどう消化したらいいのかまだわからない。

さて、いつものようにボールを蹴ったりかくれんぼのようなことをしたり、校庭でひととおり遊ぶと、娘は土いじりをはじめた。手に持ってパッと離して砂埃が舞うのがおもしろいとか、木の棒でしゅるしゅる螺旋を描いて砂がそのとおりの形をとるのがおもしろいとか、そんな感じで。

土というよりはサラサラした、粒子のあらい砂だった。雨上がりでもぬかるみにくいように用意されたものなのかもしれない。今日は天気が良かったから、キラリと光る粒子がたまにあって、それは何なのか、掴もうとすると角度が変わって他の砂にまぎれて、どれだったかわからなくなった。よく見ると赤褐色、黄土色、灰青、ベージュなどなど、細かなそれぞれは、色も格好良かった。こういうものをどこから用意してくるのか、どれくらいの厚みでこの砂があるのか、その下には何があるのか、考えるほどわからないことばかりだった。これが土じゃなかったら土って何だろうとか。

細かい一粒一粒に目を凝らすとおもしろみはあったけど、娘が楽しんでいる時間よりもずっと早く、わたしは飽きた。娘が砂で遊びはじめたので、わたしもそこに興味を持ってみるかと試みたものの、彼女の熱中には全く敵わなかった。風が強くて寒かったから帰りたかった。

これはたぶん、わたしはそれを「砂」とか「土」とか抽象化してしまうからだ。ほとんどの大人はそういうふうにしかそれを捉えられない。それは今まで見たどの「砂」とも違うもののはずで、1週間前に来たときの砂ともどこかに違いはあるはずだけど、そこに目を奪われていたら生活をすすめていけないから、違いよりも共通する「砂」のほうを読み取って、これは「砂」だねって認識する。目の前にある連続した無数の差異が、どうしても知っている「砂」の枠の中に入っていく。

娘は「砂」としてじゃなくて、目の前にある不思議なもの、そのものとしてそれに触れている。しゅるしゅるしゅるしゅる興味深そうに砂をいじっている。木の棒でなぞれば線が崩れるとか、指でこすると削れてまわりに砂がばらけていくとか、ほんとにおもしろいんだろうなあって感じで、ずっとやっていた。

これは不可能なんだけど、この大人の今の感覚で、娘が生きてる世界を体感してみたい。目線を低くするとかそういうレベルではなくて。触れている世界の生感が圧倒的に違うそれを脳のレベルで体感したい。娘はすでに言葉は身につけているから、言葉以前の頃に比べたら、抽象化は起きている。それでもあんなに砂に熱中できるのは、何かが根本的に違う。

脳を発達前に戻すことはできないからほんと不可能なんだけど、抽象化のない生の世界感覚を今、体感してみたい。ふつう3歳前の記憶がほとんどないのも、世界を捉える脳の仕組みが、そのくらいを前後に何か変わるからなのかな。

2020.05.07

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