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2歳はかわいい

子どもをみていると、超越的存在、みたいなものについて考える。子どもがそうだってことではなくて、自分から出てきたとは思えない子どものかわいさに、自然て、すごいものをつくるものだなあと思う。

そこにわたしの努力とかってのは何ら関係ないしなあと思ったんだけど、でも子どもが基本的に笑ってるのは、いや、もうすぐにイヤイヤ言って、卵割りたかった、パン買いに行って欲しかった、朝ごはんはパンが良かった、などなどなどなど、すぐに駄々をこねるけど、でもやっぱりパーっと空気が明るくなるような笑顔をするのは、まわりにいる人たちの影響もあるはずで、そこにはわたしも含まれている。

でもやっぱり、感じるのは、もっと超越的なもの。

まず、大きさがかわいい。歩いて、ぴょんぴょん飛び跳ねて、階段を上り下りして、走って、だいたいの動作ができるようになった、動いてる体の小ささが、かわいい。夫と横に並んだ時の小ささにびっくりする。家のなかをタタタタ歩いてる感じも、ぴょこぴょこみたいな、ヒヨコみたいな印象があって、かわいい。

そういう存在が家のなかにいることに、いまだに、びっくりする。ここに、かわいいものがいるなあって思う。それが自分から出てきたってことは、さらに驚くべきことで、なかなか信じられない。

わたしは子どもに、遺伝子を分けた。子どもは、わたしをつくっているものの一部をベースに、かたちづくられてる。と思うと、わたしが思っている自分というのは、わたしの、ほんとうにごくごく一部でしかないのだと思う。子どもをかたちづくった私の一部は、わたしがわたしと思ってるわたしでは全然ない、というか。

小さい頃の写真を見ると、2歳頃のわたしと今の娘は似てるけど、それが親子の実感てことには全然ならない。親子なんだから似てるやろって冷静に受け止めてしまう。そこは仕組みとして腑に落ちてるんだよね。でもなんでこんなに「かわいく感じられるものが自分から生まれるのか」は、不思議なのだ。

いまだ、どこか現実味がない。出産自体はわたしには全然神秘的に感じられなかったけど、子どもが家の中をトテトテ歩いてるのは、なんかすごい。

喋り方もかわいい。頭のてっぺんから出てくるような高い細い声。「す」と「しゅ」が混ざった、「き」は「ち」に近い、完全にそうじゃないけど、スパッとその音じゃない他の音が混ざった、いわゆる、子どもの喋り方。ああ実際こうなんだあって感じの。言い間違い、というか聞こえ間違い?そう聞こえてるのかなって言葉の間違いもかわいい。

パンとジャム→パンとチャプ。アイスクリーム→アイスピークリーム。
すーきーなんでしょ、すきなんだよーねー(歌の歌詞)→
すーきーなんでしょ、すきなんでしょ、ほーねー。
バイキンマン→ダイキンマン。子どもザウルス→こどもジャーブス。
鬼のパンツはいいパンツ→鬼のパンツはインパンツ。
にらめっこ→ちらべっと。などなど、書いてるだけで顔がゆるゆるにんまりしてくる。チャプのがジャムっぽいし、アイスピークリームのがアイスクリームよりもっと心が踊る感じをとらえてる。

大きかったら胎から出てこられないから、小さく生まれて、育つ。面倒をみてもらえるように、かわいらしさを感じるようにできてる、んだろうけど、いくらそれを生物学的に解剖学的に脳科学的に説明されても、そうなってることの凄さとか不思議は消えないと思う。

だからといって、子育ての具体的なあれこれに超やる気あります!てことにはならず、あぁあぁぁぁ…なんだこりゃあ…もうやだああ…て感情にもめちゃくちゃなるけど、2歳ってそういう年頃かなと思う、と同時に、こんな我の強さってほんとに人類普遍のものなのかしらって疑いもある。文明が進んでいくほど子どもの我も強くなってたりしないのかなとか。

何か欲しがって、家にないよと言うと、「おかあさんが買ってきたらいいでしょ」とか言うので、「おかあさんはあなたの召使じゃないのよ」と伝えることが、わりとある。なんだその発想、ていう。トイトレはその後全然進まず。こちらがかなり熱心にならないとできないのは、まだタイミングじゃないって気がするので、保留。オムツ外しがこんなに難しいなんて。歯磨きの仕上げ磨きも難しい。自分ではやりたがるけどすんごいガシガシやるから歯ブラシがすぐダメになるし、全然おとなしく口を開けてられず、動き回り、この状態でくまなく磨くってめちゃハードル高いけど、2歳児がそんなにじっくり口開けてられるとも思えないのだけど、そういう場合はどうするもんなんだろう。て感じであれこれやってると寝る時間もやっぱりそんなに早くできない。夫がいればいいかというと、毎日いれば違うのだろうけど、たまに早く帰ってくるとわたしも夫の動きに期待しすぎてしまったり、子どもも遊びたがったり、スイカ食べようぜ!とかなったりして、ペースが崩れる。まあいずれも、まいっかって範囲のことだと思うし、まいっかの範囲じゃなくなったらそれはまたその時だ。

写真は、ある日の休日。富山民藝館の石畳で、突如寝始めて、気分が悪いのかと思って屋根のあるところに抱きかかえて移動させたら、バーっと50mくらいダッシュして石畳に戻って、また寝てしまった。倒れたわけじゃないと一安心するも、移動させても戻っちゃうわけで、どうしたもんかと、少しの間途方にくれて、その場にたたずんだ。ハエがたくさん寄ってきて、青く光るのと、緑に白い筋の胴体に赤い目をしたのと、小さくわやわや飛ぶのと、いろんな種類のがいた。

その後どうにもならないと思ってまた抱きかかえて別の場所に移動したら、そっちは気に入ったみたいで、少しゴロゴロしたあと復活した。謎の行動だった。こういうことはこれから増えるんだろうか、減るんだろうか。

娘は毎日成長して、すぐに2歳じゃなくなって、すぐに幼児じゃなくなって、いずれ子どもでもなくなるのだろうけど、大きくなっても33年の年の差は埋まらないから、頭の中身はわたしをぐいぐい越えていっても、先に生まれた立場から感じる、33年若い生きものに感じる良さは、そう簡単には無くならない。

と思うのだが、やっぱり2歳はかわいい。昨日、蕎麦屋で順番を待っていたら、二人連れのおばさまに声をかけられて、2歳だと答えると「やっぱり2歳よねえ、2歳ってみんなかわいいのよ、かわいい子ってだいたい2歳。大きさがかわいいのよねえ、動きにも衒いがないじゃない、ほら、そうやって走り回って。2歳って天使ちゃんなのよ。ほんと天使よねえ」と言われて、ああやっぱり2歳ってかわいいんだあと思った。天使ってのはやっぱり、非人間的な、超越的な何かを感じさせるってことだよね。



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