見出し画像

13|神様の合理性

猪を解体するのにずっと川にいたとき、川をとても不思議なシステムに感じた。

雨は1週間くらい降っていなくて、その日も良い天気だった。でも、川が流れている。ずうっと途切れずに、水が流れていく。

この水はどこから?

山の標高はさほど高くなく、解けない雪があるわけでもない。ダムもない。それでも山は水を湛えていて、水が滲みでてくる。水は川になって、流れ続ける。

なんだこのしくみは。すごいな、と思った。

それで、私は川を、雨が降ったら流れる水路のようにイメージしていたこと、川の源についてはなんとなくダム、もしくは万年雪を思い浮かべるくらいで、はっきり考えたことはなかったことに気づいた。

たぶん、水の源には水の塊をイメージしていたんだと思う。でもそうじゃなくて、水の源にあるのは山、「水を含むことができる土の塊」だった。

それから川について少し調べて、水脈というものがあること、水は川として地表に出たり地下に潜ったりすること、土中にも水の流れがあること、それが醸造業でよくきく「伏流水」にも繋がって、水の流れは実は、目に見えていない部分のほうが大きいことを知った。

湛えられながら滲み出て、流れたり潜ったりしながら海までいきつく水の流れ。それは土と木の根、土中の微生物によってつくられるものでもあり、水が木や微生物を育んで森や土を育てるものでもあり、どれが欠けても成り立たない、水と緑と土の全体のシステム。

昔の人は、水源や水脈の要など、システムを成り立たせている要の場所に社を建てたのだという。要の場所が侵されると、水が汚れたり行き渡らなくなったりして、森が枯れて、土が痩せて砂漠化する、人が生きていけない場所になるから、そうならないように社を建てて、要の場所を守った。

そういう場所には他と違う、不可侵な空気が流れている。人はそれを神聖さとして感受する。それが「神様」のしくみ。

なんて合理的なんだろう。神様。


夫の実家が伊勢にあるので、伊勢神宮によく行く。境内を歩いていると、建物はあくまでも象徴で、本体は神宮全体のある森、そこを流れる川、背景にある山なんだと思う。

そのうえで象徴としての宮社は、山や森への敬意を失わないための実際的な装置として機能している。

20年周期で遷宮するためには、木材を調達する山を守らないといけない。20年に一度の建て替え周期は技術の継承にも適している。手を入れることで人はその存在をしっかりと思い出して、大切にしようと思う。大切にしようという想いと、建物の先にある山を大切にしなければ遷宮は適わない実際性、思想と行動がリンクして、お互いを補強しあう循環が組み立てられている。

お賽銭をして願い事をすればかなうというのは、非合理的に感じられる。そんなわけないやん、と思う。でも夫がいうに、神社で手を合わせるときには何かを願うのではなく、感謝するのだという。そういうもんやよと、義母も言う。それなら腑に落ちる。

日本の神様は信じる存在ではなく感じる存在で、信じるとか信じないとか関係なくある。信じたからといってべつに救われないけれど、感じられないと、災害が起きやすくなったり、被害にあいやすくなったり、生きづらい環境を自らつくりだしてしまうのではないか。

神様を感じられるかどうか、自然を畏れられるかどうかは、クリティカルに生存に関わってくるはずだと思う。だから、わたしのところにも、みんなのところにも、神様が戻ってきてほしい。


※参考:『土中環境』高田宏臣  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?