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良いところを見れば、結果、良くなる

トビウオを捌いていると娘がやってきて、手伝いたがったので、包丁を入れたお腹から内臓を取り出す作業をやってもらった。娘は内臓のあれこれや卵で満杯の卵巣をひとつひとつ、笑いながら、ヌメヌメと取り出していった。ちょっと不気味だった。

そうして2歳児と一緒にトビウオを4匹捌いたことでわたしは力尽きて、トビウオに大葉を巻いた天ぷらまではなんとかつくったけど、あとはトマトを切る余力しか残らなくて、夕飯はトビウオの天ぷらとトマトと食パンという内容になった。核家族で住むのが主な文化圏では、日本人からしたら朝食じゃない?と思う内容で夕飯なこともわりとあると聞く。だから今日はそれでいくことにした。チグハグなようでサンドイッチにしたら普通においしかった。

こじつけのような気もするが、力尽きたのは、じじばばの遊びに来た週末が過ぎて、「2人目はどうなのか」の話に消耗したこともあるようなないような。会うたびこれだとちょっと困る。

初孫誕生からの引っ越しからの怒涛の日々が落ち着いて、娘もしっかり育ってきたところで、わたしの年齢のこともあり(今年36歳になる)、なんだろう、それぞれ別の家庭だよねといい具合に距離があり、お互い母の立場で話すこともできてたのが、娘の立場であれこれ言われる季節がまた巡ってきた。

わたしには弟がいるので、母には子どもが2人いる。それがいかに良いことだったか、楽しかったか、話してくれるだけならばいいのだけど、説得とか説き伏せようというテンションで、なぜわたしが積極的でないかを探り、そこについての解決策を提案してくるのが、こちらとしては不要というか、どうしたら黙ってくれるのかなって言葉を探すことで、傷つけることを言いたくなったり、無駄に冷たいやつだと思われることになったりしそうで、そっちのマイナスのほうが多いやりとりになる、次があったら更になりそう。

不毛やなあと思いながら、しかし言ったことや言いたくなったことに対して、なんでわたしはそうなのかなあとか、なんで積極的な気持ちにならないのかなあとかも考えてしまって、それは悪いことだけではないんだけど、そんなに重く考えないでそういう気分になったらなっただしならなかったらならなかっただし、それで授かるかどうかだってわからないし、ただ生じたらちゃんと育てるから、もうそれだけじゃだめですかって感じ。

2人いるのいいよと言われるだけなら、そうですねって思うんだけど、そういう主張をされるのはわたしは全然いいんだけど、良い影響を受けることはあるから、むしろ遠慮せずどんどんしてもらいたいけど、そう言われてじゃあわたしもとならない場合に、こちらの気持ちを変容させようとすることまではしなくていいやん。

子どもはいるといい、だけじゃなくて、ちょっと尊大なんですけど、あなたのような人の子どもが社会には必要だ、と言ってくれる人もいる。親もそういうことを言ったりもする。社会のために、みたいなこと。おそらく、子どものいない人のなかには、自身の気持ちとしてはそれで構わず充実しているけど、親も含めた社会に対してのちょっとした申し訳なさみたいなものを感じている人もいると思う。

特に日本はそういう気持ちを抱かせる傾向の強い文化だ。でも、そう思う必要は全然ないと思う。子ども時代があっただけで十分、親孝行したんだなって、「子ども」を通じてできる社会への還元はしたなって、親になって私は思った。

つい人は(日本の人は)全体のためにとか、社会のためにとか考えてしまうけど、生き物の本懐は自分のためにふるまうことが結果全体としても調和して、全体のためになることじゃなかったっけ。

ほんとうに何が全体のためになるかなんて、わからない。全体というのが何なのかもわからない。自分ごとの範囲は人それぞれで、それがすごく広い人もいれば、そうでない人もいる、その違いでしかない。もちろんそれを広く持てれば素敵だし、器の大きい人を尊敬するし、多少無理した方が器が広がることもあるが、無理に無理することもない。器の大きさは時期、自分の状態によっても変わる。要はバランス。そのときどきの自分ごとを大切にする、に尽きる。

自分のためにふるまうというのは、自分勝手に好き勝手して、まわりを傷つけてもいいということではない。人の尺度ではない自分の尺度で、本質的に満足できる地点にいることだ。攻撃的になる必要なく、自足していること。満ちていること。支配するとか競争に勝つとか、非対称の関係のなかでの相対的な優位を求めるのではなくて、人が笑えばわたしもうれしい、ほとんど感情と区別のつかない倫理の根っこを実感すること。

そうすると、そこには、困っている人がいれば助けることも含まれてくる。困った事態は解決したくもなる。人が笑うと嬉しいから、その人を笑顔にするために動きたくなる。

人は、自分のためのなかに、人のためが含まれる動物だ。自発的な、内発的な欲求の中に、社会のためになりたい、というものがある。それに従えば、調和が生まれる。

同じことをするのでも、それを押し付けられることと、自分の中にあるその欲求に従うことは、全然違う。押し付けは苦しい。いきすぎると個が潰れてしまう。個が潰れてしまうところには全体も存在できない。空虚なシステムだけが残る。

「ために」も強い押しつけになると、調和が崩れる。親が2人目についてあれこれ言うのは、わたし(娘)のため、孫のためを思って、ということだと思う。世間体がどうとか、もう1人孫が欲しいとかってことではなさそうで、ただただ善意の親心でそのほうがわたしたち娘と孫のためになると思って言っている。

自分の方が正解を知ってる自負があるんだろう。そこであんまり食い下がられると、こちらは、今の状態では不足があると指摘されてる気がしてくる。そうすると強い言葉を返したくなる。その場においての一瞬のことだけど、攻撃的になる。

揺るぎない自信があれば、攻撃的にはならないのかもしれない。はははと聞き流せるのかも。ただわたしのなかにも子どもには仲間がいた方ががいいんだろうなって気持ちもあって、でもわたしは積極的になれないなってのがあって、そりゃすんごい努力したらそうなれない理由は潰せるのかもしれないが、それをしたいかといったらしたくないので、まあそれはそれでいいやんと、明日の気分がどうなるかもわからないし、長い時間でみて色々ひっくるめたらいい感じになるようにやってこうと思ってるのを、そこだけ強く言わないでほしい、それこそ調和が崩れる、言い争いになるってことなのだ。

ものごと、何事にも良い面と悪い面がある。よくよく見れば、はんはん。経験した状態や生じさせた状態から、それ以前には戻れない。だから、たとえば結婚して子どもがいる今の状態と、そうでなかった場合におこりえたことの先にある状態、どっちがいいかを比べるなんて不可能。今とパラレルワールドとを俯瞰して比べることはできない。常に、それがなければなかったぶんの別の実りがあって、でもそれが何なのかはわかりようがない。時間はそういう風に流れてる。

だから、「そうなった」ことを受け入れてプラスにとらえてプラスにしていくのだ。そこであえて、ないものに目を向ける必要はない。もちろんないことが問題に感じられるなら補えばいいけど、そうでないなら、「そうなった」ことの良い面を拾い集めていけば、「こうでよかった」ってことに、結果なるのだ。


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