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かわいさの奥にいるもの

子があと2ヶ月で4歳になる。この世に出てきてもう丸4年になるのか。

4歳になりかけている娘は相変わらずかわいい。これまでもずっとかわいかったし、今もかわいい。

小さい人、のような感じが、かわいい。ピンク色のカットソーにピンク色のニットズボンを履いているのが林家パー子みたいで、かわいい。

私がかわいい、というと、子どもは照れるのか、「かわいくない〜」といって顔を隠す。一方で、寝るときに
「おかあさん、いいたいこと、あるでしょ」
「いや、ない。はやく寝るよ」
「おかあさん、いいたいことあるよ」
「言いたいこと?ないけど。あなたが言いたいことあるの?どうぞ」
「ちがうよ、おかあさんが、いいたいことがあるの!」
「はあ?なんであなたが私の言いたいことのありなしを決めるのよ…ないってば。ないない。『理不尽はやめてください』はい、言いたいのはこれ」
「ちがうううううー!おかあさんが、いいたいことが、あるのおおおお」

と理不尽極まりないことになって、あとで考えれば、ああ、かわいいとか大好きとか言われたかったのかも、無粋だったわあ私、となることもある。

余談だが、イヤイヤ期を過ぎて、イヤイヤとはまた一味違う理不尽が発動することがある。布団を横向きにかけろと言いながら「足が出ちゃう!」と嫌がり、向きを縦に直すと「横がいい!」と言い、「横向きで足が出ないようにして!」と要求してくるとか。無理やが。

渦中にいるときはウンザリしているが、こうして振り返ってみるとそれもまあ、かわいいし、おもしろい。

子どものかわいさって、ご飯がおいしいとか、晴れると嬉しいとか、空気が澄んでると気持ちいいとか、そういう、自然のお恵みであるな、と思う。

自然は恵みであると同時に奪う存在でもあるから、そのままならなさ、意味不明さ、さまざまな場で課される制約など、私の我とぶつかることも常にあり、子の我も発生してきてるから、時にそれはもう混沌として、うぎゃーっやってられるか!となったり、お世話の方向性はこれでいいのかいなと不安になることもある、それもそういうものとして、

さっきまで布団を頭まで被ってたからほっぺたが赤くなってる起きたての顔のぷるんぷるんのほっぺとか。尊い、ありがたいもんやなと思って、私はナムナムと手を合わせる。

それはうちの子どもっていうひとつの存在を超えた、もっとふかい源泉、いのちが繋がってきたところに通じてるものに対して。子どものかわいさの奥にはなにものかがいる。なにものの、おはしますかは知らねどもは、ここにもいるわけだ。

かわいいかわいい言い過ぎるのもどうかと思いながら、ああかわいい、という気持ちが溢れてくるので、それを外に出すときに、ナムアミダブツナムアミダブツと言ったりする。使い方があってるのかはわからないが、そういうふうに言いたくなるというか、ナムアミダブツは、この世に満ち溢れる光に感謝しますとか、アイラブ圧倒的な大きな世界とか宇宙とか、そんな感じの意味らしいので、大きくは外してないとも思う、なんともいえない喜びとか嬉しさとかをいい具合に吸い込んでくれる、日本語でもないだろう抽象的なところなどが、しっくりくる感じがしている。

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