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生活も遊びになる

「せんたく、たのしいねえ!」

子供が順調に家事を遊びにしている。今好きなのは、角ハンガーに洗濯を干すこと。洗濯機が回り終わった音がすると「おわったよー!せんたくほす!」と、わたしが洗濯物を運ぶのを待ち構える。

「きょうはあわあわするぅ」と車の中でさも楽しい遊びを思い出したように言って、夕飯の後に食器を洗うこともある。

家事ってほんと遊びになる。わたしは幼少期に、テレビCMのままごと用の掃除機や洗濯機を欲しがって、「ほんものでやったらいいでしょ」と親に言われて、それは違うんだよわかってないなぁと思ったことを覚えているので、つまり本物の家事はやりたくなかったのだが、それは5歳くらいの記憶だから、2歳ならもっと素直に楽しめるのか、性格の違いなのか、とにかく娘は楽しんでいる。

日によっては、服と一緒にフェルトマスコットや絵の具チューブが吊り下げられていたり、干されたエプロンのポケットに積み木が詰め込まれていたり、遊具としての発展もみられて、角ハンガーをなかなかモノにしてきてるじゃないのって感心する。

子供が家事を楽しんでいるのは、やりたい時にやる「遊び」だからで、やらないといけない「労働」になったら、楽しくないんだと思う。でも楽しそうな子供をみていると、手を動かすことによって、ものが動いて、干し終わったときには角ハンガーと衣類が織りなすある形が生まれること、食器をスポンジでこすって、泡にまみれて、それを水で流して、水切りに置いたときには、重ねられた食器たちが織りなすある形がやっぱり生まれること、すべて一回限りで全く同じものは生まれないこと、などの家事を巡る別の側面がわたしにもひらかれてきて、「やらないといけない」ことであっても、ちょっとおもしろくなる。頭の中にモランディの絵を思い浮かべたりして。

労働と呼ぶと、なんだかなだけれど、生活、というか、その行為を成り立たせている物理やら何やらに目が開かれると、毎日繰り返さないといけないことの中に、ワンダーが現れてくる。

子供は身体で物理を学んでいる途中で、指がピンチの一方を押すともう一方が開くとか、開いている間に布を挟んで指を外すとピンチに布が固定されるとか、そうしたひとつひとつが新鮮、というか新鮮と感じることすらないくらい、新鮮なことしかない場で、手がものの性質、物理を習得していくのは、根本的に楽しい、楽しさそのものである様子。

それでいうと、家事と生活の区別も特になくて、小さなバケツで汲むお風呂のお湯に、しっかり髪の毛をぬらす軌道を描かせることも、泡だてネットで石鹸が泡立つことも、横からするりと押す指の動きがボタンホールからボタンを解放することも、ぬめぬめ光るプロペトがチューブからにゅうっと出てくることも、ぜんぶ熱中することなのだ。

その熱中に立ち会えるのは、とても歓ばしい。この世には不思議なことが溢れている。生活には不思議が溢れている。生活にこそ不思議が詰まっている。

お風呂のお湯をバケツに汲んで、高いところから放つ。透明なお湯が柱のように現れて、とろりとした粘度と厚み、歪んで見える向こう側がとてもきれいだった。お湯を汲んで放つだけでも遊びになった。一人でも気づけるけど、目をキラキラさせて見つめる別の存在がいることで、きれいさがより豊かに、満ちて感じられるのだった。人間てそういうふうにできていて、それも不思議だなと思う。

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