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よく見ていこう

 テレビでネットとプライバシーに関する番組がやっていて、そこで韓国の感染者の移動経路がわかるアプリと「プライバシー公開も安全のためには仕方ないのかもしれません」的な市民の声が紹介されていた。いや仕方なくないのでは。韓国では罹患した自宅隔離者をGPSで当局が監視するシステムも採用されているらしい。えー!
 普通の心理状態だったら絶対いやだと思うことが、安全と引き換えに差し出されてしまっている。それは秘密裏に進められていたことだったかもしれないが、拒否できたかもしれなかったことが、双方の同意のもと堂々とされることになってしまっている。
 病気になることが犯罪みたいでもある。日本はシステムとしてそこまではなっていないが、富山ではじめての感染者になった大学生は家に石を投げられたり、脅迫まがいのことをされたりして、引っ越さざるを得なくなったらしい。脅迫の方がよほど犯罪だが、危機感が喚起されることによって、人をそういう行為にかりたてる心理状態がすでに生まれている。これはしかし、ウィルスがなくてもネットがなくても、ずっと起こってきたことなのかもしれない。だから人はずっと変わっていないっていうだけのことなのかもしれない。
 
 ニュースをみていると、人間にとって不都合なことも嫌なことも起きる不確定で危険でリスクばかりの私たちが生きている現実と、人の社会が目指しているものがどんどんどんどんどんどんどん離れた方向に向かっていて、それは何でもなかった人の生活も破壊して、権力の強制力を強めて、相互監視を生み出してっていう、生きていることの精彩を欠く、生きてはいるけど辛いっていう事態に人を運んでいってるような気がしてしまう。
 でもそれは極端な見方で、そうした全体像のイメージはそれはそれで今の情勢に影響を受けすぎたものかもしれない。明け渡してはいけないものがあることはずっと意識していないといけないと思うけれど。

 不自然、歪、人の社会はすでにそういうものであって、それが顕在化しているだけなのかもしれない。でもじゃあ、それが自然ではないかというと、それもやっぱり自然の一部なのだよね。人間の心の仕組みも集団心理も狡さも弱さも怖さも恐れも知性も。どんなに自然から離れた歪に感じられるものであっても、それは自然が人に与えた力によってつくられたものだ。そしてウィルスも人も自然の一部で、人が人をつくったわけじゃない。
 だから全て受け入れようということではない。社会が少しでも良い形であるようにできることをやりたいし、できることは小さいけれども完全に無力だとも思わない、できることはある。
 これから何がどこまでどうなるのかわからない、全体像はぜんぜん見えないし、それはやっぱり常にいつだって世界の全体像は見えないのだが、まだ決まってもいない。
 ただどういうものであれ、それもまた自然の一部なんだと理解すると、冷静によく見ていこうという意志が沸いてくる。わたしは。

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