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14|漆器は神様、お味噌汁は仏様

先日、漆掻きをしている漆芸家の話をきいた。

漆というのは、ウルシノキが傷口を保護するために発出する、かさぶたになる液体だという。人は人為的に木を傷つけて、その傷口から漆を掻きとる。全部とりきってしまうと枯れるので、枯れないように、かつ6月から11月のシーズン中、ずうっと漆が出続けるように、それぞれの木の個性に合わせた掻きかたをするのが、漆掻きの技なのだという。

漆掻きを終えた冬、ウルシノキは倒伐される。このやり方を「殺し掻き」という。わあ!

そして春になると切り株から芽が出てくるから、それをまた植えて、10年かけて育てる、1シーズン掻く、伐る、の10年周期の繰り返しなのだそう。

傷を治すためのエキスを掻きつづけるというのは、なんともいえない感覚が湧く。いたたたたた、となる。命が凝縮したものをいただいていると、手を合わせたくなる。

漆。俄然興味が湧いてきて、別の日にyoutubeで講座をきいた。

漆には、固まるのに水分を必要とする、おもしろい性質がある。だから固まった状態で、内側には水分が含まれている。これが、漆器に触れたときのなんともいえないしっとりとした感触、心地よさを生み出す。唇は特にその心地よさを敏感に感じるから、漆器で汁物を飲むと、より「おいしい」。

漆の語源は「うるわし」だともいう。漢字にもさんずいが使われている。

それでいて、硬さはガラスと同じくらいの強度があり、一度しっかり固まると、とても丈夫になる。他の物質と反応しない、溶け出さない安全性もあるらしい。

そして、漆は赤い顔料と相性がいい。赤は太陽の光や血やマグマといった、エネルギーを象徴する色。だから縄文時代から、人は祭祀に漆をつかってきた。

さらに、なんとも不思議なことに、漆は時間が経つほどに透明度とつやを増す。漆の茶色味が抜けて、顔料の色が冴えてくるから、赤い漆器は使い込むほど赤が明るくなって、光沢がでてくる。

ふつう、経年変化したものは色は暗く、風合いは渋みを増して、侘び寂びの住人になっていく。それが、使うほど明るく光沢を増していくなんて、ミラクルじゃないか。

命をそのままいただくようであり、人にとって心地よい質感があり、赤が映え、時間が経つほど明るくつやを増す。漆は神様性を強く感じさせるものだなあと思った。

漆は、それでしか有り得ない、代用できない力を持っていて、特別さを通じて、人に自然の恵みを教えてくれる。

一方で、工芸には特別ではないものもある。柳宗悦が提唱した民藝-民衆的工藝-はそういうものだろう。祭祀ではない、日常のためのもの。

私は、民藝とは用即美のワンダーだと思っている。美しいものをつくろうとしたのではない、用いるためにつくるものに、美しさが宿ること。

そのワンダーに、柳は仏性を見出していた、のだと思う。仏とは何か。神様とどう違うのか。

神様はいたるところに宿るものだが、特別なものでもある。神様は恵だけれど、奪うこともある。人はそうそう神様にはならない。菅原道真が天神様になったり、手塚治虫が漫画の神様になるのはレアケース、特別な才能に恵まれた人だけだ。

仏様は慈悲をかけてくださる存在らしく、神様よりも人に近い。「慈悲をかけてくださる」は「そういう設定」の「フィクション」だけど、そのフィクションには、慈悲をかけてくださる存在に手を合わせることで、助け合いの心が育てられるという合理性があると思う。人は誰でも仏様になれる。

「誰も彼も、知らずの内、ただそのままで阿弥陀さまになって暮しているのです。その生活こそ、いままで思いも及ばなかったお助けそのものの生活ではないでしょうか。 -棟方志功『板極道』」

この島の神様とは自然の恵みと厳しさ。この島の仏様とは自然と人の中にある慈悲心。柳は特権階級でなくても美を実現できること、民に開かれている美しさを民藝と呼んだ。

美が特権階級にしか許されないものならば、多くの人の生活は味気ない。けれどこの世はそうはなっていない。特別な才能や地位がない人、無名の工人が生活のためにつくるものにも、美しさは宿る。むしろ特権的な美の源流は、民衆的な美のなかにある。

柳の言葉には、無名のつくり手へのエンパワーメントがある。だから「民藝とはなにか」というのは、つくることで実感されるところが大きいものだと思う。

とはいえ、手工芸から遠く離れた現代の生活において、「使うためにつくるものが美しくなる」機会はそうそうない。現代において仕事を成り立たせている職人や工芸作家はなかなかにみんな超人的で、柳のいう「無名の工人」には、もうすこし開かれている感じがある(現実には無名の工人といってもその集落や産地では有名な腕利きだったろう、ものによってはその土地の有力者や王様が使うものだったかもしれない、それがほんとうに民主的なものだったのかというのも、ものによりそうではある。理念と実際にはずれがあるというか、完全に現実に即して語ろうとはされていない、写実ではなくて抽出的な論だったと思う)。

そこで私が思う民藝が体感できるものは、味噌汁だ。

味噌汁はおいしい。味噌汁をつくるのは難しくない。塩漬けの大豆を毎日食べたいとは思わないのに、味噌汁は毎日食べても飽きない。味噌を仕込むことも難しくない。味噌汁は誰にでも開かれていて、おいしくて、飽きない。

味噌汁のおいしさには、職人芸からうまれる高級な和食とも比べられないおいしさがある。おいしい味噌汁ができたとき、私は自分がそれをつくったとは感じられない。素材の旨味と、味噌の旨味が一体化して、なにか超越的な「おはたらき」が生じて、この味になっている、とほれぼれしてしまう。

超絶的な技やお金がなければおいしさを味わえないならば、わたしたちの生活は味気ない。でもこの世はそうはなってはいない。誰にでもつくれる味噌汁に、何とも比べられないおいしさが宿る。そこに仏の恩寵が感じられる。

仏といわなくてもいいんだけど。夕飯つくるの面倒…つくりたくないなあ…でも子供いるしつくらないとってなかば嫌々、おいしくつくろうなんて思ってない、ただただつくらないといけないからつくる味噌汁が、食べてみると、めちゃくちゃうまいやん…と目を見張るほどおいしい、そういう日があって。

味噌汁は身体にも良い。免疫力を高めて体を守ってくれる。味噌の旨味は生まれて初めて口にする乳の旨味にも繋がっているから、味噌汁が好きな子供も多いと思う。子供にも安心して食べさせられるし、食べやすい。

それらになんともいえない恩寵を感じて、これをなんて表現するのか、仏じゃないかしらっていう実感があったのだよね。

料理家の土井善晴さんは、味噌汁は南無阿弥陀仏だという。

うんうん、て思う。難しい料理をしなくても、味噌汁をつくっていれば大丈夫。味噌汁はおいしい。飽きない。栄養もあるし、体を守ってもくれるし、何の素材をいれてもだいたいおいしい。自然のおはたらきが満ちている。

ということはつまり、漆のお椀によそうお味噌汁って最強では。

ウレタン塗装の木椀でも、樹脂成形のお椀でも、お味噌汁ってお椀で飲みたいものである。唇に直接あたるものは、ひんやり冷たい陶器や金属より、あたたかみのある柔らかいものがいい。代用品を使うとしても、感覚が求めてるのは漆器ってことだろう。お味噌汁は漆器で飲みたい。

漆器は神様。お味噌汁は仏様。ひとつのお椀のなかに、神仏が習合している。

「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる–西行」

お味噌汁がしみじみおいしいとき、なにごとかがおはしましているのは、このお椀のなか。



参考:柳宗悦『工藝の道』『美の法門』
   棟方志功『板極道』
   高木孝雄『わかりやすい民藝』
   松井健『民藝の擁護』
   赤木明登『器文化と日本人 2漆の秘密』




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