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うんちとおしっこの季節

トイレットトレーニング、順調気味。今日はご飯中に水たまりを発生させて、子ども用じゃないけど座りたがるわりと高級な椅子にシミをつくり、その三角形を「おにぎりできたよ」と言ったので、笑った。

その後はパンツを履きたがらず下半身裸ん坊でいて、夜にわたしがオンラインで打ち合わせをしているときに、ひとりでオマルに座って用を足すことができた。すーっと動ける時とえびぞってめちゃくちゃ嫌がる時があって、嫌がった後は少しして水たまりをつくってしまいがちなのだけど、だんだん慣れていくんだろうか。

オムツからの自立過程で訪れる、うんちとおしっこの季節。うんちとおしっこって言葉ばっかり言ってる気がする季節。オムツをしているときよりもずっとそのことを気にかけて何度も呼びかけて、パンツとズボンを洗う季節。

しかしこう、なんで、うんちもおしっこも汚いものってわたしたちは思うんだろう。実際、菌がいっぱいいて、素手で触ってそのままにしておくなんて絶対だめなものだけど、生命の物質循環としてはすごく大事なものでもある。それを土に還すことで、人は一方的な収奪者ではない、循環の一部になれると思うのだ。とはいえ臭くて、扱いは難しいから、排泄物をうまく土に還せる、トイレで堆肥化できる技術が、開発されたらいいなあと思う。

それで、わたしはうんちもおしっこも汚いと思うけれど、娘はまだあまりそうは思っていない様子。昨日は床にできた水たまりを触って、わたしが拭くものをとりにいっている間、近くにあった画用紙になすりつけてクレヨンをにじませたり、髪の毛を結ぶゴムをその中に入れたりしていて、びっくりした。

でもたしかに、自分から水が出てくるって、神秘だよね。

娘は自分のしたうんちを興味深そうに何度も眺める。うんちと二人きりにしたら、たぶん触って遊ぶと思う。トイレでわたしが排泄するところも嬉しそうにのぞくし、夫の股間も興味深そうにまじまじと見つめて、感触を確かめようとする。虫もなんでも大丈夫で、蟻もダンゴムシも大好き、カエルも捕まえるし、魚の内臓もニコニコしながらむしりとる。

うんちやおしっこがどのように汚いのかは教えないといけないけど、気持ち悪いと感じる感覚を教えることはできない気がして、扱い方さえわかっていればそう感じる必要もないのかもしれず、ならばこれはグロテスクだなあと感じる、わたしの感覚はいつどうやって身につけたのかわからない。はて娘の感覚はこれからどうなっていくのか。

女の子が花柄やピンク、キラキラしたもの、小さくてかわいらしいものを好むのはジェンダーのせいかと思っていたけど、娘の場合は生来的な好みのよう(そのうちまた変わるかもしれないけど)。逆に、感覚的に汚いと感じそうな排泄物が全然大丈夫なのが、下に対する忌避感こそ後天的な、価値観として学ぶものなのかと、意外な気がした。

排泄物、性器、いわゆる下のものを汚いとかグロテスクとか恥ずかしいと感じることが、不思議といえばずっと不思議である。だって、生命活動のなかで、何よりも本質的なことなのに。食べて排泄して生命を維持しながら子孫を残す、いってみればその基本が、疎外されてる社会だよね、現代は。

因習的な、女は血を流すから汚れているみたいな考えも、謎だ。みんな、その血にまみれて生まれてきてますけど?場合によっては糞便も一緒ですけど?いきんだら一緒に出ることはよくありますけど?っていう。

基本が疎外されていなければ、女性差別っていうことにはなり得ない気がするんだよな。このあたりは網野史観の、はじめは畏怖とともにあった特別視が、自然への敬意が薄れたことによって差別意識だけのこった、ということなのかもしれない。

差別には謎が多い。差別は、本質的なものではなく、あるシステムを維持するために必要な方便、ないしそのシステムのための犠牲を正当化するためのシステム、だと思う。だから突き詰めていくと辻褄が合わない。

アフリカはホモ・サピエンス生誕の地だし、日本人の多くは朝鮮半島からの渡来人の子孫だろうし、障害者は明日の自分の姿かもしれないし、みんな女の胎で育ってそこから生まれてきたのだ。人種差別、障害者差別、女性差別、すべて自分を否定することに繋がるはずなんだけど、そこを忘れさせるシステムの力があまりにも強いのだよね。(じゃあどうしよう、ということについて思うことはたくさんあるのでそれはまた別に書こう)

ただわたしはやっぱり、文明至上システムの社会に育てられたからなのか、うんちもおしっこも汚い、そうそう口にして言うことではないという感覚が身についている。だからうんちとおしっこの季節において、外出中は特に、なんともいえない気分になりやすい。

この前は久しぶりに外食した和食屋で、ご主人と話してる時に、トイレから夫と戻ってきた子どもが「おしっこでたよー」と言ったので、反射的に「おしっこできたのー!」と返してしまった。その言葉を発しただけで、空間を少し汚してしまったような気がした。料理屋なのに、ごめんなさい、と思った。

さいわい、もう他のお客さんはいなかったけれど、もしいたら、ちょっとした営業妨害だったと思う。味は統合感覚だから、すごくイメージに左右される。うんち、おしっこ、言葉を聞くだけでイメージしてしまう形態とか匂いとか、そんなに具体的には想起しないだろうけど、でも食事中にその言葉を聞くだけで、ちょっと食べ物がまずくなると思うのだよね。

そうなんだよねって思いと、ほんとうに汚いものなのかなって、自分の感覚を疑う思いに挟まれながら、この季節を見守ろう。


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