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包丁記念日

 子どもがはじめて包丁を握って野菜を切った。今日はこれをまず書きたい。ままごとではない道具を早くから使わせるのはどうやら良さそうだなと思っていたので、包丁も使ったらいいと思っていた。やりたいときがはじめどきという。それが今日訪れた。
 いつもは夜作った味噌汁を朝も飲んでいるのだが、昨日は夜で味噌汁が終わったので、めずらしく朝から料理した。野菜を切っていると子どもが隣に来て、「しゃきーんする」みたいなことを言った。お、これは包丁を使いたがっているんだな、と思った。これまで米を研ぐマネや野菜を洗うなどはやりたがったけど、包丁は初めてだった。
 そのときにはあらかたの野菜は切り終わっていて、里芋だけが残っていた。『ゴースト』の陶芸シーンみたいなかんじで里芋を切った。左手で猫の手を作らせて里芋の上にのっけたりもした。そして包丁記念日の里芋入りの味噌汁ができた。
 一人で持たせるとブン回したりして危険なので、まだ独り立ちはさせられないがけど、こんなかんじで一緒にやってくのは良さそうだなと思った。

 友達に昨日教えてもらった東大の医者の記事に、コロナ終息は10年仕事とあった。そしていちばんの問題は子どもの育ちだと。そこでは感染リスクを封じながら、運動やソーシャルな学びの場をいかに提供するか、親の知恵が試されると。
 たしかに、ある程度できあがった状態での抑圧生活と、そこから学んで自身をつくっていく対象が抑圧生活になるのとでは全然違う。疫病が流行ったことはあっても、高度医療がなければ医療崩壊を防ぎながら抑圧生活を送る選択肢はなかったのだから、今の状況は誰も経験したことのないもので、どれだけの長さになるのか、その全体像もわからなければ、それがどれだけの影響を及ぼすのか、収束後さらに時間が経たなければわからないこともたくさんあるのだと思った。
 わたしたちが享受しているもののほとんどは100年前にはなかったものだから、今育つことが育ちにどう影響するかはコロナがあってもなくても変わらないのけど、コントラストは確実に強くなるというか。逆にいうとコントラストが強くなるだけなのかもしれないけど。

 しかし10年か。我が家はちょうど田んぼに囲まれた一軒家に引っ越す計画をしている。工事が必要なのでいつから住めるかはわからなくなってしまったが、数年のうち(!)には引っ越す。家の周りには山もたくさんあって、人よりもイノシシの方が多い、三密空間は探さないとないような場所だから、運動に関しては問題ないような気がしている。
 都会の子どもの交換留学みたいな受け入れもしたいとも思っていて、というのが農業はもとより漁業や林業も体験できる場所なのだ。タイミングが合えば猪の解体にも立ちあえるかもしれない。管理責任的にハードルが高くなりそうだけど、なにかやりようはあるはず。
 田舎はネットなんて繋がれていなくても相互監視が基本設定だから、もし集落ではじめての感染者になったら(引っ越す頃にはもうそれはなさそうだけど)、わたしたちの家の呼び名は「コロナ」になるだろうと言って、夫と笑った。

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