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ていねいな暮らしって

 誰が言い始めたんだろう。ざっと検索したら、発端は高度経済成長期後、それまでむしろ「ていねいに」しかできなかったことが家電によってまかなえるようになり家事が趣味化し、主婦の存在価値を示すかのようにあえて手をかけて凝ることが流行ったのが第一波。そして2000年代に情報革命が起きて社会変化のスピードがいっそう早くなると同時に、理想化された昔の生活への憧れが高まったのが今に続く第二波、との記事が出てきた。 
 そう、ていねいな暮らしって、変化が早すぎる産業界に対してのオルタナティブだったと思うのだ。それが倫理観と説教臭さを帯びてしまって、生活界においてプレッシャーになっていたり、反感を買ったり、揶揄されたりもしている。
 その後(?)「時短」がきて「映え」がきて、「ていねいな暮らし」はライフスタイルのひとつとして定番化しつつ、目立たなくなっている気がしたけど、「ていねいな暮らしでなくても」という暮らしの手帳のコピーを見て、複雑な気持ちになった。
 それは手をかけることが規範として機能しすぎてることからの解放や、イメージだけ膨らんで実生活から離れていってるところの引き戻し等を意図した言葉だと思うのだが、それはそれで、え、ていねいな暮らしダメなの?って感じも抱くなと思って。そこで抱いた感情自体がなんかめんどうなものやなと思って。
 これいいですよって紹介されると、じゃあそうできないのはダメなのかなって感じてしまうのだよね。相手にはそんな意図はなくても。でも紹介している方には他じゃなくてこれを選んでほしいという想いはあったりするから、それいいね!っていう素直な気持ちだけじゃなくて、じゃあこれはダメなのかなという感情が生まれたりするのも仕方ない、そういうものなんだろう。

 ていねいにしかやれなかった時代と違って、とにかくわたしたちは選べる。畑やったり猟をしたり、調味料から自分で仕込むこともできるし、竃で火を起こしてもいいし、井戸を掘ってもいいし、買った野菜で自炊してもいいし、カット野菜を買ってもいい、野菜と調味料一式パックになってるものもいい、合わせ調味料もある、お惣菜もある、冷凍食品もある、外食は今は難しいけどテイクアウトしてもいい、家事代行を頼んでもいい、水に溶いて飲めば1食分の栄養がとれる完全栄養食もある。
 そのなかでどれを選ぶのかっていうことが、そうとしかやりようがなかった時代と違って、自分も含めてときに感情に触れることがめんどうにも感じるけど、でも選べるのはいいことだ。

 自分で選んでいる、それがいいこと。選べないような気がしているけど、ほんとうは、最終的には選べる。何でも自由に手に入るわけじゃないけど、思ってるより実際の選択肢は少ないけど、ほとんどなかったりするけど、何かを得たら何かを失うけど、でも選べる。どっちをとるか選べる。自分で決められる。あなたは絶対これって決められてはない。罰則を伴う強制をされてない。他の誰かに決められるんじゃなくて、自分で選べること。それだけはぜったい手放したくない。



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