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ていねいな暮らし、もしくは感謝

子どものズボンがサイズアウト前に穴があいたので、ダーニングしてみた。はじめてだから、出来栄えはまあ、あれだけど、これがものにできると、穴あきだけじゃなくて、落ちなくなってしまったシミも隠せるから、服がとても延命できるようになる。

これと、染め直しもできるようになったら、大人の服はできるだけ長く着て、最後は雑巾にしてさよならすることが、できるようになりそう。

染め直しは作業そのものよりも、掛け合わせてできる色のイメージの組み立てや、生地を傷めない温度調整とか、染液につけたら変な反応してボロボロになるとか、すでに施されてる加工がどういうもので、そこに何をすればうまくいくのかっていう見極めが難しそうだけど、小さいものからやってってみようと思う。

そういうことができるようになると、天然素材で製造工程に無理なくつくられた、値段の張る服も、大切に1つこれ買おうってなれる。

わたしは服が好きなほうだ。

ダーニングは楽しかった。今日も子どもが帰ってきたら、子どもが遊んでる空間で、わたしは針仕事をしようと思う。

ダーニングは、イギリスに伝わる繕いの手法で、刺繍みたいなイメージでいたけど、やってみたところ、基本は、針を使って、穴の空いた部分に平織りの組織をつけたすことだった。布の組織が絶えてしまったところに、針と糸をつかって織物をするのが、面白くて、よかった。

これはいわゆる、ていねいな暮らしという言葉で表現されるような行為だ。そういう名づけや、名づけたところから肉づけされていくイメージは、マーケティング的要素もあって、あくまでもイメージであり現実とは離れてるところもあるから、そういうイメージに苦しめられることはなくていいと思うし、トゥーマッチになる必要もないし、現代において実際的なところの生活に雑さが入ってくるのは当たり前のことで、それぞれに、またその時々に、心地良いてきとうな地点、良い塩梅を探るのがいいと思うけど、ものを丁寧に扱うことは、やっぱり、気持ちがいい。丁寧にできない何かがあるとして、それに罪悪感を感じることも、ふつうの心の流れだと思う。

人は時間に敬意をもつようにできている。ものは時間が結晶化したものだし、人もそうだ。存在にはそれぞれの時間が含まれている。それを雑に扱うことへの罪悪感は、自分がおびやかされる恐れとも、きっと結びついている。

明るくなったら起きること。時間を短縮しないで、そのものが持ってるペースに合わせてなにかすること。豆を煮ること。繕い仕事をすること。そういうことをするときに得られる充足感は、存在の根っこみたいなものに、たぶん、繋がってる。

道元の『典座教訓・赴粥飯法(てんざきょうくん・ふしゅくはんぽう)』という本がある。禅の修行道場における食事を用意する役職「典座」の教訓と、ご飯の食べ方の作法について書かれた、ていねいな暮らしに通底する思想の原液のような内容。

料理が修行になる。それは、重要なことがそこに全て詰まっている、ということだろう。料理から学ぶことは測り難く大きい。その指摘には、心が洗われるような、気持ちの良い、すうっと晴れやかになる、それでいて深いところにも響く感動があって、料理がそういうものだっていう感覚をずっと忘れたくない、忘れそうになったら何度もこの本を開きたい、と思った。

思いながらも、厳しすぎて、じぶんの現実と照らし合わせた時に、苦しくなるものがあった。これは無理だと。修行のためのものなのだから、教訓なのだから、それはそうだろう。書いてあることは何も悪くない。完全にこちらの、受け取る側の問題だ。ただわたしは、こうあらねばならないという教えが、どうも苦手だ。

ていねいな暮らし界隈には、やっぱり、こうあらねばならないという規範がたくさんある。規範が規範として機能するのは、暮らしはそれだけで修行になりうる行為で成り立っていて、ものを大切にていねいに扱うことは、命を大切にすることに繋がっているからだと思う。どうでもいいことなら、規範にはならない。そこにはなるべくしてなる「正しさ」がある。

それでもやっぱり、「ねばならない」が苦手だ。正しくても、すごくいいと思っても、何かしらの反抗心を感じてしまう。

カウンターカルチャーが自分のベースにあるから?なんでかはわからない。でも、なんか、苦手なのだ。これもあり、それもあり、がいい。

写真でわかると思うけど、わたしは手先が器用じゃない。手で生きてない。職人さんたち、手で思考してるような人たちと多く触れてきて、心底自分は頭で生きてるなと感じてきたし、それは職人さんと実際に出会う前からもわかっていた。わたしは頭で、手の動かなさを補って生活している。

こうすべきと言われても、やりたいと思っても、できないこともたくさんある。やりたくないこともある。やる必要ないと思うこともある。

着物の世界はほぼ完全なる捨てない世界なのだが、着物だけでは暮らせない。

着物界には、着物は楽だという人がいるのだけど、わたしはTシャツのほうが楽だ。パリッとしたシャツにスカートにパンストにハイヒールが普段のスタイルの人には、普段着の着物は楽に感じられると思うけど、わたしは、Tシャツにゆるゆるタイパンツが普段のスタイルなので、着物は楽じゃない。それでも着ることの良さがあるから着物も着るけど、だから、Tシャツがこの世にあることはありがたい。

ありがたいことに、仏の世界にも、修行を説くのではなく、ひたすら感謝すればいいという他力の宗派がある。

富山に来て、浄土真宗を知って、お寺の取材も多かったので、『歎異抄』を読んだ。それで、悪人正機、というのがなんとなくわかった。

倫理の授業で習ったときは、悪人て言葉にシリアルキラーや大量殺人鬼をイメージして意味がわからなくなってたけど、そうじゃなくて、悟れないことを自覚してる人、みたいな意味のようだった。

悪人とは、肉欲も、名誉欲もある人。つまり解脱を目指さない、目指せない、普通の人。

修行の道に入るって、それで稼げるわけでも食べ物が家族に支給されるわけでもないだろうから、生活を支えないといけない家族がいたらできない、心持ちとして悟れるかどうかとはまた別のところで、誰でもできることではないよね。

それに、肉欲を否定したら人類は途絶えるけどっていう、そこはどうなんだろう。自分の存在自体も、なかったほうが良かったってことなんだろうか。

親鸞のなかには、屠畜を職業とする人、遊女といった、当時すでに完全にではなくとも差別の目が向けられていた人も救いたい想いがあった、というようなことが網野善彦の本に書いてあった。そういう人は、職業的に悟ることから疎外されてしまっていて、でも社会は、そういう人もいて、成り立っている。

これは、家にいようって言われてステイホームできる人はできるけど、家ではできない仕事だから、または生活のために、できない人もいるっていう状況に似てる、のも置いといて。

わたしも悪人のほうに入る。ていねいはいいな、と思うけど、毎日じゃないし、この先、衝動的に服をどばっと捨てて、どばっと買いまくることがないとも限らない。そういうことが必要な時だってあって、それはそれだって、思う。そういうことをしなくても、常に、よくないと思うシステムの恩恵はぜったいに受けている。

ただ、だから、感謝しようと思う。今あるもの、生活を支えてくれるもの全部。

阿弥陀に帰依するのは、ちょっとこれまた無理と思うけど、感謝することはできる。


ていねいな暮らし的なもの、惹かれるところ多く、やると楽しいことも多い一方で、合理的で手をかけないことも好き。雑でいいと思うこともたくさんある。(ていねいな暮らしは、誰かが思想として標榜したものではないと思うので、たとえば「民藝」のようには、その本質がどこにあるのかはつかめず、「合理的にして手をかけない」のが、ていねいな暮らしの範疇内なのか外なのかは、わからない)

摂理を享受する。これまた人の、生きものとしての基本的な態度である。

かつて雑誌か何かで、ていねいな暮らし代表のような人が、たまに毒を食べようといってファストフードを食べて楽しむこともあります、みたいなことを言っていたのをみて、傲慢さに引いた。毒と思うなら食べなければいいし、食べるなら毒って言わない方がいい。

いずれにしても大切なのは感謝じゃないかって思うけど、生産せず、ひたすら摂理を享受して生きる狩猟採集社会では、感謝もさほどしないらしい。

大変で貴重だと思うから感謝するけど、生きてることが摂理の一部なら、感謝する必要もないんだろう。人だって土に還って、摂理として食べ物の一部になるのだから。いずれは自分も何者かの食べ物になる。いずれはじゃなくて、今にも食べられるかもしれない。自然てたぶん、そういうもの。

だから、感謝が重要に感じられるのも、こちらが一方的に捕食者でいられる、農耕牧畜以降の考え方なんだろう。

仏教も、農耕牧畜以降の宗教だものね。農耕牧畜社会で生じた辛さを軽減するものだとも思う。

でもやっぱり、今は農耕牧畜社会の延長にあるから。なにはともあれ、感謝することが、わたしには必要なことだと思っている。


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