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子供時代〜研修医後

このブログを書こうと思った理由は、日本生まれ日本育ちの女医が幸せになるにはどうしたらいいか。その方法を一緒に考えたいから。
私は日本生まれ、中流家庭育ち、中高一貫私立から公立医学部、研修医終了後はマレーシア海外インターンの後に岩手県でITベンチャーでマーケティングと遠隔医療プロジェクト担当をした。
子供の頃から友達作りが苦手で、高校の頃から生きてることに意味がなく感じられて他人と楽しくやれなかった。どうしたらいいんだろう、と私なりに必死で頑張って紆余曲折を繰り返した最近10年とその前の子供時代のこと。
転職回数4回、海外移住を経て、岩手に移住して、東京に引っ越して、小田桐あさぎ魅力覚醒講座に出会って今に至る。
この記事では、岩手県に来る前まで。

子供時代

父親が歯科開業医、母親は薬剤師の家庭で、子供は年子で3人いて、母は専業主婦をしていた。神戸の片隅で生まれ、その後両親が初めて購入した新築一軒家に引っ越したものの中学受験準備のために車で1時間程度の西宮に新たな賃貸に転居した。母はとても真面目で、子供の幼稚園でママ友から幼児教育塾のことを聞いて通わせ、その幼児塾でのママ友に中学受験について知識を得た。自分が医師になりたかったが成れなかったという経歴を持つ母は、いろんな理由をつけては子供3人を医師に育てようとした。小学校低学年の頃から将来は医師になって独立して生きる、実家にはお金がないから大学進学は国公立で、と教えられた私はそれ以外の道は知らず、私の世界の中で一番大事だったのはは母の言うことに逆らわないことだった。中学受験の時は母は子供3人の大手塾や個別塾の送り迎え、食事、お弁当作りはもちろん、お金の工面を行い、子供を寝かしつけた後、夜も大手塾の録音書き起こしとまとめノート作りや個別塾で使う指定された教材作りをしていた。

中高時代

中学に上がってからは学校行事への参加は許してくれたものの、医師になることを最重要視して進学塾通いだった。小学校の頃と同じく私はやりたいことはなく、医師になりたいと思うこともなく医師になるべく勉強をしていた。学校の成績は中の下、塾の成績も良くなかったため、母はそれまでの苦労や掛かっているお金のことを私に言っては私がしゅんとする、という繰り返しだった。何に困ることもなく、やりたいこともなく、学校と塾の宿題をこなし漫然と毎日を過ごしていた。中学受験での借金、進学校学費、進学塾費用、家2軒分の家賃を抱えた父親は常に疲れており、母は自分の思い通りにならない人生に対して不機嫌なことが多かった。
18歳の頃、母に一度だけ、何かやりたいことはあるのか、と聞かれたことがある。母のミシンで学校のダンスの衣装を作ることにハマっていた私は服を作ることが面白くて仕方がなく、服を作る仕事をしたい、と思い始めていた。普段は買ってもらえない衣装も自分で作れば手にできる、それが楽しくて仕方がなかった。だが、母の無言の 医者になるわよね?こんなに私たちが苦労して育てたんだから、と言う圧力に押されて言えなかった。

医学部時代

浪人して医学部に入った後も変わらず、医学部に行っている自分を認めたくなかったし、反面医学生であると言うこと以外に自分を表現できないでいた。
髪はカラフルに染め化粧は派手になり、学校は最低限しか行かず、大学になってやっと解禁されたアルバイトに明け暮れた。服飾専門学校の土日部にも通ったりしたけどお金がない続かず途中でやめ、大学はギリギリで卒業して医師免許を取った。
研修医を始めた後も仕事に行きたいと思えたことはなく、何をしたら怒られないか?何をしたらダメな奴だと思われないのか?だけをずっと考えていた。内視鏡補助していても手術助手をやっていても興味がなくて眠くて眠くて、カフェインの錠剤を大量に飲んでは気持ち悪くなっていた。救急外来当直は見落としやカルテ記載様式を怒られるのが怖くて本当に苦手だった。毎日大したことはやっていないのに疲れて疲れて仕方がなく、朝が起きられず、起きられないのが怖くて毎日床の上で寝てまた寝不足、の悪循環だった。仕事帰りにストロングとシュークリームをコンビニで買っえ食べては寝落ち、が増え、虫歯が一気に増えた。
最も、当時は増えていたことにも気づかなかった。
2年頑張り初期研修を終え、とにかくもう無理だと思って、一旦医師を辞めた。

マレーシアで不動産インターン

とにかく1年、海外に行こう。そう思って、海外で安くなんとか生きていける方法を探し、マレーシア ジョホールバルの不動産屋に潜り込んで半年過ごした。初めての医者以外の仕事、海外が楽しくて仕方がなかったが、半年して単純作業にも飽き、社長とも上手くいかなくなったため一旦日本に戻ることを決めた。積極的に交友関係を広げられず1人行動が多かったから、結局Netflixと英語資格くらいしか夢中になれることがなかったから、マレーシアで楽しいことを見つけられなかったのかも。

マレーシア後半でホームページ制作を勉強しながらプログラミングの世界を興味を持っていた私は、日本に戻る先として岩手県八幡平市を選んだ。タダで住み込みでプログラミング講座が受けられるシステムがあり、お金もなく家の当てもなかった私はそこで1ヶ月を過ごした。その終わり、Apple Watchアプリを作っているというAP TECH(後述 apfuck ※1)社を紹介され、やったことがない仕事だったので興味が沸き、残金が少なく他にやることも無かったのでとりあえず就職した。
自分を医者というラベルでしか定義できなかった私は、その時は半年程度の腰掛けのつもりだった。
※1 apfuck
会社に関わった様々な人への感謝、私の会社人生への反省を踏まえて、心の中でapfuckと呼んでいる。


次の記事はapfuck勤務から。
ここでも、医師を捨てたいのに捨てられなかった私の葛藤がある。

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