メタ根無し草と行く京王線―小説『フルトラッキング・プリンセサイザ』感想

小説『フルトラッキング・プリンセサイザ』を、『ことばと』vol.7の電子版で読みました。著者は池谷和浩さん、これは第5回ことばと新人賞で優秀賞を受賞された、400字詰原稿用紙150枚分の小説です。

総評としては、VRに関する思想や予測はない代わりに、主人公の人物像を印象づけることに特化した小説だと思います。主人公の世界の見方、物の感じ方を、小さなエピソードや独白を積み重ねることによって、単なる説明や属性の開示よりも深く読者に体感してもらおうというのが、この小説を通じて作者が試みたことのように見えます。

(2024.06.23)池谷さんとバーチャル美少女ねむさんとの配信、及び単行本収録の『チェンジインボイス』『メンブレン・プロンプタ』を読んだ後の感想を記事の末尾に追記しました。


文体:エンタメ小説ではない

まず注意しなければならないのは、文学賞の選考というものが「必ず読み始めてはもらえる場」であること、その中でことばと新人賞は「思想やエンタメをうまく文字に書き起こすこと」ではなく「小説という形式自体が持つ新たな可能性を模索する」という基準で選考しているらしいということです。文学賞でも下読みでは読み進めるに値するかを冒頭だけで判断されることがありますが、少なくともタイトルや表紙や「小説という形式自体」によって素通りされることはありません。これがweb小説や同人誌などで不特定多数の読者を相手にする時との大きな違いです。さらにことばと新人賞の場合、選考会の模様の書き起こしを読む限り、冒頭で魅力的なキャラクターや思わせぶりな引きを焦って出す必要はなく、それよりも言葉とその繋ぎ方でどのような効果を演出できているかの方が評価されるのだと思います。小説の構成要素を作劇と文体に分けたとき、文体の比重が大きい、と言えるかもしれません。

そのため、ライトノベルのようなエンタメ小説を読むときに私たちがするように、冒頭の掴みや序破急の盛り上がりやエモーショナルな台詞回しなどを期待して『フルトラッキング・プリンセサイザ』(以下「フルトラP」)を読むと、きっと戸惑い、飽きると思います。もちろんエンタメ小説でも優れた作家(高橋弥七郎・秋山瑞人・甲田学人のこと)はみな固有の文体を持っているのですが、そこに注目せずキャラクターや作劇を追っても冒頭から楽しめるようにはなっています。翻ってフルトラPの場合、最初に読者が主人公との間にとるべき距離、あるいは間合いの呼吸のようなものをうまく掴めるかどうかが、面白く読めるかどうかの分かれ目だと思います。

間合いの呼吸と言ったのは、フルトラPでは見かけ上三人称小説であるところに時々一人称視点の表現が挟まることによって、読者は主人公から遠い位置と近い位置を往復することになるからです。読者はその都度「遠いとき用」と「近いとき用」の二つの姿勢を切り替える必要があります。選考会ではこの文体を面白がっていたようでしたが、これは瑞っ子(秋山瑞人に私淑する一群の人々のこと)にとっては親の顔より馴染みのある「自由間接話法」です。これはうまくすれば一般の一人称小説以上に作劇に臨場感を持たせることができます。なぜそうなるのかといえば、一人称部分がシームレスに挟まることによってそれ以外の三人称部分も「主人公から見た世界」という性質を帯び、一方で三人称であることによって主人公自身には作中の展開をどうすることもできないという無力感が強調され、結果として読者は主人公の視点から一定以上離れられないまま主人公と一緒に展開に流されることになるからです。

ただし、フルトラPでは作劇に緩急が乏しいため読者の注意は作劇よりも主人公の内面に向き、さらに主人公の認知特性の偏りのために主人公の知っている情報が断片的に、しかも話の本筋から逸れる形でしか読者に明かされないので、異質な主人公の生き方を少しずつ掴んでいくという読書体験になります。これは一定の忍耐力を要するでしょう。

私の印象では、主人公はあらゆる行動に動機がなく、その場で目に飛び込んできたものに振り回され、短期的な対処を企てるものの、自分自身の見せ方や生き方についての長期的なデザイン思考を持っていないように見えます。これは現在のソーシャルVRについて言われる、「なりたい自分になる」「アイデンティティをデザインする」と称される使われ方とはほぼ真逆のものです。しかし作者の池谷さんが紀伊国屋書店の選書フェアで、「小川さやか『「その日暮らし」の人類学』を読んで閃いた人物造形と社会への距離感」と述べられているのを見ると、恐らくこの刹那的な行動原理は意図したものです。『「その日暮らし」の人類学』はタンザニアの経済を主に紹介したものですが、社会の流動化や個人の多動性によって現代日本でもこのような生き方は既に現れており、またこのような生き方は秩序の歯車として回収されない個人の実存感覚を取り戻す助けになります。

そう意識して読むと、例えば場面の転換が分かりづらく、段落を変えなかったり、変えても前の段落からの時間的関係が明示されていなかったりすることも、主人公の関心の範囲だけを記述した結果ではないかと思われます。この書き方によって、主人公が何を意識して何を意識していないか、世界を生きる際の感覚のようなものが伝わってきます。例えば「うつヰ」という名前自体、職場の人々から実際に呼ばれている名前でもハンドルネームでもなく、それらとは別に主人公が自認している名前である可能性があります。一足飛びに俯瞰視点から語る分かりやすい人物理解を退け、語りの構造自体を通して人物像を掴ませようとする姿勢がフルトラPには一貫しています。

VR:ぶいちゃ民ではない

私がフルトラPを読んだのはタイトルからしてソーシャルVR(しかもマニアックな装備であるフルトラと、VRの大きな存在意義の一つである美少女プリンセス)を題材にしているように見えたことと、著者の池谷さんとバーチャル美少女ねむさんとの対談が告知されたからですが、実際には、この物語にとってVRは恐らくフレーバーでしかないでしょう。この作品でVRが果たしている役割は、ワーク・ライフ・バランスという現代的なトピックや主人公のどことなく離人感のある世界認識を、物理現実の都市とVRの駅との二重性によっても象徴させている、ということだと思います。

VRを舞台にした物語の多くがそうであるように、トラッキングとボイチェンとハプティクス(擬似触覚)は完璧であるという設定で、従ってフルトラは主題ではありません。VRと物理現実で性行為までしますが、主人公がそれをどう捉えているかは書かれていません。主人公は自分の身体感覚にあまり関心がないのでしょう、が、一方で武蔵野台の王女の太腿を舐める描写から、身体感覚に飢えているような気配もあります。

フルトラという設定にしておきながら、それへの無感動さを通して身体性の欠落のようなものを描くのはVRを題材にした作品としては新鮮ではあります。そのためには主人公が物理女性である方がリアリティが出るのは確かでしょう。傾向として、身体のままならなさと付き合う機会が多い分、人格と身体を同一視する傾向が薄いからです。バーチャル美少女ねむさんとリュドミラ・ブレディキナさんの実施されたソーシャルVRライフスタイル調査2023のフルトラに関する質問項目においても、物理女性は物理男性に比べて「機材もなく導入予定もない」が7ポイント高く出ました(物理女性13%/物理男性6%)。これは「身体が自在に動けばもっとアバターのキャラクターに没入できる、それはいいことである」という考えに性差があることを意味します。この差を裏付けるかもしれない議論を精神科医の斎藤環さんがしています。

 オリヴィエが指摘するように、女性の頭と身体はしばしば乖離してしまっています。
 この乖離ゆえに、私には女性の身体意識が、ある種の「操縦感覚」ではないかと思われることがよくあります。つまり、女性身体というモビルスーツを着用して、それを思い通りに操縦しようとしているような感覚です。女性においては、自分と肉体との間に距離がある、といいうるのではないでしょうか。

斎藤環『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』

アバターのアイデンティティについても、フルトラPでは触れられません。アイデンティティは物理現実とVRで大きく異なりはせず、匿名性と、物理現実と異なる人間関係が希薄にあるくらいです(それもオフで交わりますが)。列をなして線路を歩き、手を繋いで歌を歌うなどの牧歌的なシーンは確かに主人公を振り回す労働と対比的ではありますが、主人公にとってVRは物理現実における趣味のコミュニティとほとんど変わらず、そこを真の居場所と考えたり、過剰な期待をしたりはしません。これが著者のVR観の限界なのか、それとも「VRにさえも期待をしないのが現代の人間像である」(この記事のタイトルにある「メタ根無し草」とはこれを表したものです)という表現意図の結果なのかは判断の難しいところです。とはいえ、後者だとしてもVRに特有の体験がほぼ描かれていないのは気にかかります。VRを例えばポケモンGOに置き換えても話の筋にはほとんど影響しないと思います。

紀伊国屋書店の選書フェアには『メタバース進化論』もピックアップされていますが、フルトラPに活かされた箇所は第2章と第3章くらいだと思います。『メタバース進化論』で一番面白い箇所が第4章と第6章とあとがきであることはよく知られています(チエカ調べ)。

プリンセサイザについても、特に美少女アバターへの思い入れは語られません。造語として格好いいだけにもったいなくは思いますが、この主人公の造形では必然でしょう。作中におけるプリンセサイザは複数のVRプラットフォームを相互接続するサービスで、京王線沿線の駅前をワールド化した者を「王女」に祭り上げるシステムと合わせて、都か国のメタバース事業向け補助金を得た京王電鉄のキャンペーンだと私は思っています。ソーシャルVRプラットフォームの相互接続は現在のメタバースの大きな課題の一つで、鉄道会社が片手間でやるには壮大すぎるのですが、プリンセサイザだけで入れる「王の路線」があるなどの記述からはシステム構築の段階から京王電鉄が母体だと考えるのが一番筋が通ると思います。また、版図を奪うなどの競争要素はいかにも資本がけしかけそうなことです。それにしては競争が激しくなく、また王女の称号の授与も厳格に運営されていない印象があり、恐らくあまり詳細な設定はないというのが実際のところなのでしょうが、公共交通機関のある路線を全線VR化すること自体には需要がありそうです。

複数のVRプラットフォーム、広義のメタバースに共通する本質を「美少女化プリンセサイズ」にみるというなら私のような者にとってあまりに都合のいい話ですが、それすら資本が煽っていることにすぎず、現代的な人間像には「真の居場所」や「真の願望」などというものはないというのが、この作品から引き出せる主張なのでしょうか? フルトラ・ボイチェン・ハプティクス・美少女アバターが当たり前になった世界の未来予想としては暗いですが、フルトラPで描かれているVRは実のところ単なる物理現実に近い挙動をするサードプレイスなので、ソーシャルVRの利用者がこの作品を読んで悲観的になる必要はないと思います。

宣伝:遠慮している場合ではない

VRを舞台にした小説や漫画が盛んに描かれるようになって数年が経ちますが、ソーシャルVRはまだまだ新しい物語を生み出す余地を残していると私は思います。それはコンピュータと身体性という相反するかに見えた二つの要素が手を取り合う場所であり、自分の表し方と世界の見方をデザインしていくことのできる実験場だからです。全てのものが記述によってできているように見えるこの世界は、小説に書けば新しい言語表現の可能性を秘めた鉱脈にもなるでしょう。

私自身もソーシャルVRを舞台にした小説を書いています。私の文章は電撃文庫に影響を受けていますので文体はエンタメ小説寄りですが、今のVR関連技術でほとんど実現できそうな、アバターと精神をめぐる未来予想です。


内なる無数の他者 『卵割』 25000字

無限美少女擬人化の恐怖 『Aleph』 30000字

極限のVR感覚を催眠で 『アバターマリオネット』前中後編 60000字

メタバースは滅亡する 『Local mirror in the sky』 1400字

私と呼ぶにはあまりにも 『夕焼けを見る時の心で』 1400字

おぼえてる? 『Visitor』 1400字

追記:対談配信と単行本の感想(2024.06.23)

対談配信

6/21に、著者の池谷さんとバーチャル美少女ねむさんの対談が配信されました。作品についてのお話からお二人の活動の細部にまで広がる、ねむちゃんねる史上でも五指に入る面白い配信だったと個人的には思います(五指を挙げれば、「バ美肉バレるとどうなるの?」「初生放送のニコ生LOG」「ハネたんと徹底討論!」「フルトラP刊行記念トークイベント」「シン・VR飲み会 ~クラフトビール講座②~」です)。

アイデンティティの話にかなり踏み込んで語られているのは、池谷さんがねむさんの活動を詳しく追っていらっしゃる(VRChatもされている)ことによるところが大きいです。私が対談前にtwitterで「メタバース観をすり合わせるのに時間がかかると思う」と言ったことは大変失礼しました。

私も「何か意図があって語ろうとしていると思い込む悪癖」を患っているので、文体やうつヰの造形に社会批評のようなものを読み取ろうとしましたが、むしろ池谷さんの個人的な葛藤や執筆歴が反映されているということでした。そうするとますます言語表現の実験という側面が強調されてきます。私は対談の日に電子版で単行本を読み始めたのですが、『チェンジインボイス』を読むと確かにうつヰの印象が大きく違い、うつヰの感情の動きも直接的に描かれています。これがうつヰ自身の人物像の設定ではなく書く形式の違いによるものだというなら納得できます。

私が自由間接話法に特有の没入感と離人感の往復だと思ったものや、描写がうつヰの視点に拘束されていると見えたものは、実のところお話に第三の語り手がいることによるとのことでしたが、これはやはり自由間接話法と区別のできないものです(秋山瑞人の場合は作者が無力な語り手の水準に降りるので)。

説明的な記述を排するという意思は当然作品から読み取れるのですが、それをするにあたって起き抜けの無意識で書くというのは確かに効果的かもしれません。ねむさんが言文一致に言及されたように、分析的な思考を一旦やめてリアリティに立ち返る、つまりは言葉のVR性を扱うための試みとしては分かる話です。

対談の最後にボイチェンのお話も出ましたが、そう言われると私も挑戦したいですね、声を変えることがアイデンティティに及ぼす影響を活字だけで表現する小説。 (演劇なら、例えばイェリネクの『光のない。』を一人二役でやるのは面白いと思います。)

単行本

『チェンジインボイス』『メンブレン・プロンプタ』を読みました。この二作を読むと『フルトラッキング・プリンセサイザ』の印象は大きく変わり、確かにうつヰの持つ偏りの大部分は語り手や語り方の偏りがそう見せているにすぎないということがよく分かります。とはいえ、私は公式が作品外で語ったことによって自分の解釈を放棄しはせず、裏設定にも特にこだわらずに読むことにします。うつヰの人物像と作品の語り口とが完全に独立しているともやはり思えないので、根本的には根無し草であり一貫した大きな物語の中には生きていないという見方を維持します。

『チェンジインボイス』がボイスチェンジャーのお話でなかったのは少し残念ですが、インボイス、つまり契約やお金を取り交わすことで社会的つながりを実感する傾向がうつヰには強く、人のお尻への執着とも相まって、やはり身体性(形の見えるコミュニケーション?)への飢えがあるように思えます。

『メンブレン・プロンプタ』はフルトラPよりも技巧が多彩で、視点の切り替えや時系列のシャッフルや人間ドラマがあります。うつヰと鳥居と富士見は三者三様にメンブレン・プロンプタであるわけですが、うつヰについて言えば、フラッシュバックが地の文を上書きする様子はフルトラPと地続きです。人物のバックグラウンドが次々に小出しにされていき、そのために読者の把握している情報の更新を迫るのも、フルトラPでほとんどカメラアングルのみによってうつヰの人物像を浮かび上がらせようとしたことと同じです。とはいえ、『メンブレン・プロンプタ』の方が説明的な記述を許容してはいます。

富士見のプロンプトが地の文と形式を変えず対等に書かれているのも、うつヰのフラッシュバックやフルトラPの文体と同じで、言葉で表されたものは全て等しくリアリティを構成するという立場の表れでしょう。人間へのプロンプトインジェクションは私も『Aleph』で扱いました。

富士見のプロンプトはプリンセサイザを表しているはずですが、十二の墓と駅の対応関係や四人の女の配役ははっきりしません。もしかすると傘の女は布田の王女で、富士見の負い目の表れではないかとも思います。うつヰやつつじヶ丘の王女の線も考えましたが、どれも決定的な証拠には欠けます。私は分からないものを分からないままにしておくことに一定の美しさを感じるので(ポケモンのラティアス・カノン論争など)、王女とフィジカルの人物との対応関係はあまり当てようとしていません。飛田給の王女は鳥居だと思っていますが、鳥居はモデリングに挫折しているのですよね……?

東京の西部は、住宅地と開発から取り残された森のパッチワークになっているという印象を私は強く持っているので、船が鉄道路線なら鯨や海は自然や伝統文化を象徴していると読みます。お墓もそうですが、テクノロジーが発達するほどその外側の(あるいはその網目の間の)原始的なものが意識されるようになると思います。


〈以上〉


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