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喪失を受けいれる時間の終わりと、終わりから始まりまでの時間のはじまり
2日前に叔母が亡くなった。叔母とは親せきだからという以上に親しくしていたし、心の距離がかなり近い人だったから、喪失感が大きい。覚悟はできてはいたものの、こんなに早くその時がくるとは思っていなかった。そんなのんきな自分を責めたりもした。
今日までの2日間、身体も心も重たく、自分自身がずれているような、何か求めているものがあるのだけれどそれが何かわからない、もどかしく悲しい、という気分にとらわれていた。
今日の午後は、そんな重たさに、ただ座ってじっとしているのに耐えられず、海岸沿いの道をずっとドライブしていた。窓を開け放って、はいってくる海風にすこし気持ちがラクになる。
しばらくそうやって、自分のなかの重たくもどかしい悲しさをあるがままに認め一緒にいながらも、目にはいる海の色に心をやわらげ、キラキラと照りつける陽の光に元気をもらい、自分の内側に風をおくりこみながら過ごしていたら、ふいに、ああ、もう抜けたな、と感じる瞬間があった。
自分がずれたような感覚はうすらいで、軸がもどったような感じ。重たさはほとんど感じなくなった。
胸の中には、しずかな湖のように叔母への想いがたまっている場所ができている。まだすぐに涙がでる。けれど以前とはちがう感覚だ。
それは、しずかにただそこにあり、やさしい切なさのような雰囲気をたたえている。わたしはこの先ずっと、ときおり胸の中の湖のほとりに座ってもの想いにふけるんだろう。けれど、それはもう、わたしを重たく沈みこませるようなものじゃなくなっていた。
この変化を味わっていたら、この2日間は「喪失の衝撃を受けとめる時間」だったんだなぁと思った。
人の存在はエネルギーをもっている。その人がこの世からいなくなるとき、親しい人たちの中にあったその人とつながったエネルギーも、何らかの変化をするんだろう。
喪失の衝撃を受けとめる時間、とは、その人を失ったことでおこる自分自身のエネルギーの変化を受けいれる時間といえるんじゃないかな、と思う。
自分という存在もどこか、わずかだとしても、カタチを変えていく。
「喪失を受けいれる時間」は今日で終わり、ここからは、「その終わりから、次の章をはじめるための、あらたな自分の準備をととのえる時間」がはじまったんだろう、たぶん。
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叔母の思い出を書きました。
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