見出し画像

パッケージングされることへの、抗いかた

unimamさんが、都々逸を書かれていました

ぬしと私は玉子の仲よ わたしゃ白身できみを抱く

これは恋の歌ですが、ずきゅーんと胸を射抜かれました。わたし、妊娠中、おなかの子(現・ひよこ)を「黄身」、自分を「白身」と扱っていたんですよね。SNSでつぶやくときや、日常でも「おなかの赤ちゃん、なんて呼んでるん?」と聞かれたときに。温泉に浸かってるときは、「嗚呼、これがほんとの、温泉たまごだ」なんて思ったりして(ちゃうちゃう)。「黄身と白身」の、響きが「菊と刀」みたいなところも気に入っていていました。出産は、黄身と白身の分離だから、その呼称の終わりという意味でも、なんだか感傷的になったのを覚えています。そして、黄身は、元気にオギャーと出てきて、ひよこに変身。

黄身と名付けたのは、名無しの権兵衛は、不便だったからです。声を掛けるにも、SNSでつぶやくにも。だからといって、「赤ちゃん」と呼ぶには生まれてないし、「ベビちゃん」文化圏には住んでいなかったし。ふと、黄身で君な「きみ」に思い至り、ユニット「たまご」を結成しました。

思えば、妊娠してからというもの、ずっと、パッケージ化されることに馴染めないでいます。「ベビちゃん」にはじまり、「ママ」「ママ友」「ワーキングマザー」。いろんなひとの、いろんな想いが託され過ぎてる、言葉たち。「母親」「友だち」「親でいながらの、働きかた」に言い換えるのが、わたしなりの、ささやかな意思表示です。充実感と悪意がないまぜになった「ママ友ランチ」は、お互いに子どもを連れて友だちとごはんを食べるのだから、それをそのまま「子連れランチ」と言い表す、とか。

玉石混淆の意図がパッケージングされた、表面上つるっとした言葉じゃなくて、だいたいわたしが考えるようなことなんて、先人がすでに言語化してるんだから、お知恵拝借しながら、手ごたえのある言葉を紡いでいきたいです。

よく名は体をあらわすって言うけれど、むしろ体の方で自然にずるずると名に近づいていくんじゃないでしょうかね。そういう気がするんです。

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?