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コラム「しらす」


 ずっと、もし生まれ変わっても、しらすにだけはなりたくないな~(;´∀`)

 って思っていたんですよね。

 パシャはお店で使っている業務用のしらすなんですけど、これをホテルパン(飲食店で一般的なステンレスの入れ物)にうつして使うんですが、その時にも、めちゃめちゃガンバって掻き出さない限り、袋の中に残るしらすは10匹以上。更に、使っている内に落ちてしまうしらすもいるし、新しく補充する時に、ホテルパンに残っているしらすなんて50〜100匹はいます。

 同じような製品で、ほうれん草とかいくらとかもあるんですが、ほうれん草が袋に残っても、それは1個体の一部だし、いくらが数粒残っても、それは言ってしまえば生まれる前だし、よくは知りませんが無精卵かもしれないじゃないですか。

 でもしらすは、ガンバって生まれて来たのに大人になることもできずに殺されて、しかもその挙げ句に食べてもらうことすら出来ずに捨てられて。いったいなんのために生まれて来たんだ⁉ って思わざるを得なかったんです。

 例えば人間一人の命が生まれ変わったとして、しらす数千匹分になっているならいいんですよ。

 でも一寸の虫にも五分の魂。このしらす一匹の命は死んで、地獄を越えて、生まれ変わった誰かの命かもしれないじゃないですか?

 この、しらすという食材を作り出した人間の業もさることながら、究極の理不尽な輪廻がここにある気がしてならなかったんです。

 だから、しらすみたいな生まれ変わり方はイヤだな、って思っていたんですが、

 最近思ったことが、

 例えば、何年か先めちゃめちゃ頭いい博士が不老不死の薬を発明したとして、全人類が、これでもう死の恐怖から解放された!! って歓喜したとして、翌日たまたま隕石が落ちて来て、人類滅亡とかしたりしたとしたら、

 それはしらすと同じだな~って。

 アインシュタインやエジソンやスティーブジョブズや、偉大な学者、博士、ミュージシャン、芸術家、作家がこれまでたくさんいましたけど、それは結局、地球の一部の話であって、宇宙全体から見たら、しらすと何も変わらないんだな、って思ったんですよね。

 じゃあつまり、命になんて意味なんてないのか? って言ってしまったら、それは違うと思うんですよね。

 これ以上の話を続けてしまうと本が一冊出来上がってしまうのでこの辺にしておきますが、

 わたしがずっと前に辿り着いた、物語を書き続けている理由があるんですけど、それはやっぱりそこに繋がっているのかな、って。

 やっと生まれてすぐにパック詰めされて、結局食べてすらもらえず捨てられてゆくしらすの命にだって意味はあるのかもしれないから、

わたしは今日も、猫を愛することができるのかもしれません(*´ω`*)

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