料理をする、という概念

学生時代からずっと
パティシエになりたかった。

きらきらして見ているだけで
胸が躍るような感覚。
ケーキ屋さんの扉をあけたときの
誰でも無条件に包み込んでくれるような
バニラやバター、焼き菓子の優しい香り。
泣きたくなるほど好きだった。

誰かのために、いちからなにかをつくる

美しさと、食べたら消えてしまう儚さに惹かれた。

作るのが好き、なことと
仕事にする、ということを
結びつけてしまったら
趣味がなくなってしまうのではないかと
いま考えるとなんだそれ、と言われそうな理由と
洋菓子という、あってもなくても良いものに
人生をかけることに恐れを感じて
(専門学校の学費が高いのもあったけど)

少しでも安定を求めて大学で栄養学を学んだ。
栄養士になって病気食を作ることには
心がときめかなかったので(私は、という話です)
料理教室の先生になった。

手作りの大切さを伝える、といえば
聞こえがいいだろうか。

カレーのルーの原材料で一番多いのは油
既製の調味料は添加物がたくさん入っていて
添加物は子どもにまで影響をあたえる

そんな「料理教室を売るためのセールストーク」に
自分自身が長年洗脳されていた。

既製品を使うことを、悪だと勘違いしたまま
この歳になっていた。

そのせいでいちいちハードルが高い。
麻婆豆腐だって某CookDoを使えば
豆腐さえあればできるのに。
わざわざ豆板醤を買ってニンニクを刻んで
作る前からその工程のめんどくささにうんざりして
気づけば料理が大嫌いになっていた。

そんな感じだから
結婚をして、毎日ご飯を作ること
これが本当にハードルが高くて
すぐにもう嫌だと、ねをあげた。

自分だけのために作るなんてまず、しない。
夫がいるから作る。ただそれだけ。
こんなご時世、外食もしにくく
家に籠って、在宅勤務をして
夫が帰ってくるまでに料理をする。

朝起きてすぐに
夜ご飯何作ろう、を考える。
この食材があるから、今日はこれだけ買って、明日は…
え、頭使いすぎじゃない?料理。
世間の主婦、すごくない?


何度も聞き覚えのあるようなことを
改めて実感する羽目になる。

追い込まれたわたしは
今まで手を出さなかった
既製調味料を手に取った。


切るだけで簡単。炒めて混ぜるだけ。
もう完成。?

罪悪感があった。
こんなの料理したなんて言えない。
「味付けはわたしじゃないし」
便利なもの使っただけだし。と
ひねくれていた。

本当はこんなもの使わなくても作れるのに、と。

某CookDoで作った回鍋肉を
すごい勢いで食べながら、夫が言った。
「美味しい、いつも作ってくれてありがとう」


「こんな手抜きで、ごめんね」


「手抜きだろうが、作ってくれたことには変わりないでしょ?」


ロマンチックでもなんでもない
ありふれていそうな言葉に
何故か妙に はっ、とした

あぁ、そうか。
便利なものを使うことが、
うまく手抜きをすることが、
悪いわけじゃないんだ。

食べてくれる側は
「キッチンに立ち、作ってくれたという事実」を
受け止めてくれるんだ。

逆に
いちから全て作らなければ料理といえない
というのは
私のエゴで、勝手な美学だったのだ。

自分のプライドで自分の首を絞め
好きだったはずのことを、嫌いになっていた。

こんな、些細なことで
自分の概念を見直した。

そもそも、美味しくないわけがない
嫌々いちから作られたものより
便利なものを使ってもサッとご機嫌で作られたほうが
仕事で疲れて帰ってきた夫には
何倍も美味しいはずなのだ。

自分のご機嫌は自分でとる
自分を責めず、うまく楽をして
まだ終わりの見えない自粛期間を
ゆるく、乗り切ろう。




#おいしいはたのしい


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