精神的な病を抱えた親を持つヤングケアラ―の対人関係について

みなさんは、ヤングケアラーという言葉を聞いたことがあるだろうか?
流行語として扱われていたので、知っている人もいるかも知れない。実はおそらく、広い意味で私もヤングケアラーである。また、高校生当時は気づいていなかった(ヤングケアラーの概念も知らなかった。)のだが、高校時代の友人も介護者だった。ほとんど介護の話しはしなかったのだが、今思えば友人はヤングケアラーだったのだった。
今回、私が調べたヤングケアラーは、在宅介護者といわれてイメージされる方ではないのだろう。一般に、ヤングケアラーとは老人または心身に疾患のある親、または兄弟の世話をする人をさす。
私が集めてきたものは精神疾患がある親というカテゴリーになる。その中には虐待事例もあるので、当事者の方は読んでいて辛い可能性がある。
そのようなときは、精神疾患&親、ヤングケアラーなどといった単語でweb検索してみてほしい。
そこには多くの似た経験をした人々がいる。


この話は長いので、何が言いたいか先に述べておくと、この話の結論としては、「似たような経験をしたひとが体験を共有し、孤独感を薄めることが重要だ」ということである。




これはほぼ卒論である。自分だけでは不完全燃焼というか、モヤモヤしたところがあるのも確かだ。拙いところがあるのはご容赦していただきたい。読みづらいこともたっっっっっくさんある。その点承知していただきたい。(卒論なので33000字あるがそれもご容赦いただきたい。)

では私が調べた古今東西、世界各国で調べられたヤングケアラーの、こと日本の実態について紹介したいと思う。
(クラスに何人いるのかとかは統計データを見てみてほしい。)





要約

 本研究は、看護や社会福祉といった他分野で注目されてきているが、臨床心理学領域において取り扱いの少ない精神的な病のある親をもつヤングケアラ―について取り上げた。まずヤングケアラ―の研究しに注目した。そして2つの事例を用いて、彼らの対人関係について注目し、自尊感情の観点から考察することを目的とした。用いた2つの事例は、看護と社会福祉で研究されたインタビュー調査である。まず各事例を検討し引用した内容から再構成してカテゴリーに分けた。そして2つの事例を比較検討した。更に事例の共通点から、ケアラーに共通するだろう特徴や、自尊感情、そして愛着の型愛着の型の視点から考察した。今後の課題として、男女差や、心理的な面を取り上げるために臨床心理学領域において事例検討を行う必要があると思われる。

目次

第1章 問題3

1.研究史3

1)欧米でのヤングケアラー研究

2)日本においてのヤングケアラー研究

第2章 目的4

第3章 方法5

第4章  結果6

1)事例A

2)事例B

第5章 考察7

1)事例の考察

2)事例の比較検討

3)ケアラーに関して

第6章 まとめと今後の課題8

引用・参考文献


第1章              問題

思春期、青年期は子どもにとって身体的、精神的成長の変化が大きくなる混乱の時期である。その時期は家庭と周囲の友人関係が、自我の形成や自立するにあたって重要となる。しかし、特に家庭の環境は生まれつき制限される。例えば、家庭において自身が重要な役割を担わなければならない人々も存在する。そうした人々は国内外で、ヤングケアラ―と呼ばれる。その原因は貧困や、親の心身の状態による社会的な構造からもたらされる。しかしながら、ヤングケアラ―は幼いころから多大な責任を負わされる。そして、友人関係など対人関係の制限を受ける。それによる影響は特に国外で注目されてきた。日本においてヤングケアラーが研究されているのは専ら社会学分野、社会福祉学分野、教育学分野、看護学分野であり、臨床心理学的視点での研究は少ない。代わりに学校臨床心理学では精神障害者の親と子どもに関する研究において、親の精神障害と子どもの登校の問題の関連が明らかにされた(武田2010)。日本ではヤングケアラーという呼称が浸透しておらず、精神障害のある親を持つ子ども、介護を担う児童など呼称は様々である。

 現在子どもたちの問題は、不登校や引きこもりなどの様々な問題が発生している。そして家庭内の要因が大きく関わりを持つことが多くの研究で明らかにされてきている。(武田2010)。親の精神疾患と子どもの関連について論じた(武田2010)は論文において、子どもの問題の発生要因として養育者の精神疾患を挙げ、学校における支援について論じている。このように、子どもが親の心理的要因から受ける様々な影響が指摘されてきている。


2.研究史

⑴ 欧米でのヤングケアラー研究

近年、イギリスをはじめとした先進諸国において、「家族ライフサイクル」の視点を背景に、子どもと家族をめぐる新たな問題として在宅介護を行う子ども、つまりヤングケアラーが注目されている。ヤングケアラーの定義は多義的である。ヤングケアラーが行うケアの定義そのものについても国や論者によって様々な解釈がなされている。在宅介護者の権利についての先駆けとなったイギリスの研究者であるソールベッカーは、2000年の「社会福祉百科辞典」にてヤングケアラーを次のように定義している。

「家族メンバーのケアや援助、サポートを行っている(あるいは行うことになっている)18歳未満の子ども。こうした子どもたちは、恒常的に、相当量のケアや重要なケアに携わり、普通は大人がするとされているようなレベルの責任を引き受けている。ケアの受け手は親であることが多いが、時にはきょうだいや祖父母や親戚であることもある。そのようなケアの受け手は、障害や慢性の病気、精神的問題、ケアやサポートや監督が必要になる他の状況などを抱えている。」(澁谷2012)引用。

イギリスでは早くからこのような子どもの問題に着手され、様々な調査や研究、支援が行われている。先進諸外国において疾病、傷害を抱える親、兄弟あるいは祖父母などサポートを必要とする家族のケアを担う児童が一定数存在することが明らかになっており、そのような家族ケアを担う児童のニーズ把握や支援のあり方が児童福祉問題として注目され始めている(柴崎2005)。イギリスにおいて「ヤングケアラー(Young carer)」と称される児童たちは、家事援助や身辺的介助のみならず、要援護者の精神的サポートや与薬の管理、年金や保険の引き渡しまで行う。ヤングケアラーはそのケア責任のため友人関係や学業を犠牲にし、学習面での困難を抱えることも少なくない。また状況に応じてケアを担うことによる影響が多岐にわたることなどが報告されている(柴崎2005)。

⑵ 日本においてのヤングケアラー研究

日本ではヤングケアラー実態調査を行った(北山2011)は、ヤングケアラーの存在が日本でも一定数存在することを明らかにした。また、北山の学位論文内ではヤングケアラーとは、障害あるいは何らかの困難を抱えている親戚や兄弟、あるいは祖父母等の介護や看護もしくはそのケアの担い手となっている未成年の子どものことを指す。とされている。         日本ではこうした病気あるいは障害を抱えた家族をケアする存在が最近まで取り上げてこられず、またその特徴やニーズ等についても取り上げられることはなかった。日本でも近年ヤングケアラーについての研究が進んできてはいるが、まだまだ全容解明と子どもたちへの積極的で実践的な支援には至っていない。日本においては、高齢者の家族介護におけるストレスや、ジェンダー分析、障害児・者の家族支援等について、広く関心がもたれているものの、イギリスのように親や兄弟、祖父母等親族をケアする子供の実態が取り上げられることは少ない。

第2章 目的

 社会福祉学のイギリスの先行研究においてはヤングケアラーの親子関係について、親子役割の逆転、教育問題、社会生活と友人、経済活動、人格の形成と就職問題について言及されている(三富2000)。本研究では精神障害のある親を持つヤングケアラーに注目する。あまり明らかにされていない精神障害のある親を持つ子どもたちの、他者とのかかわりについて、彼らの自尊感情に注目し考えることを目的とする。

              第3章 方法

解釈に適当な内容が十分に述べられていると考えた以下の2つの事例について論じる。以下の2つの事例は幼少期から精神障害のある母親と暮らした事例である。しかし、事例⑴は社会福祉、事例⑵は保健医療分野における研究である。わが国での臨床心理学領域における研究は見当たらなかった。また、当時の体験を語る年齢は、事例Aが20代、事例は40代となっている。また取り上げた2つの事例はインタビュー調査による事例であり、著者の説明と調査協力者の語りで構成されている。

①事例A

メンタルヘルス問題の親を持つ子どもの経験    森田(2010)

―不安障害の親をケアする青年のライフストーリー―  引用

 この論文における研究目的は、メンタルヘルス問題の親を持つ子どもの経験を明らかにし、援助に関する基礎資料を得ることである。特に子どもの経験とアイデンティティ形成に与える明らかにすることに注目している。研究方法は、メンタルヘルス問題の親を持つ青年1名を対象に、非構造化面接を用いた面接調査である。そして、ナラティブ分析が行われている。

 論文内で論じられていることは、ケア役割に巻き込まれる、友情・社会関係の機会の制限、親のメンタルヘルス問題をめぐる経験としてスティグマの経験(臨床心理学の定義とは異なる)、メンタルヘルス問題の理解のしづらさ、カミングアウト、物語の変化、⑴ライフコースの選択において、病状の変化、ホームヘルプサービスの等の利用、精神障害者家族との出会い。⑵子どもの経験とアイデンティティの形成について、である。

②事例B

統合失調症を患う母親と暮らした娘の経験 田野中(2015)  引用

 論文の研究目的は、これまで国内で明らかにされてこなかった統合失調症を患う親と暮らす子どもの経験を明らかにし、必要な支援について示唆を得ることを目的とした研究である。インタビューを実施し、定性的アプローチを用いてデータの収集と分析が行われた。

 研究内容はインタビュー調査を用いた実態調査である。調査協力者は「精神に障害のある親を持つ子どもの集い」の参加者である。⑴世話をされない生活を自分で何とかするしかないむずかしさにおいて、「幼少期から食事や身の回りの世話をする人の不在、小学生の自分がやるしかない家事、食事作りや身支度が分からないことによる困難、体の成長変化に一人で対応できない困りごとと恥ずかしさ、友達から知る普通の生活、普通の生活が分からないことによる自信のなさ、承認されないことによる自信のなさ、一生続く生活のリハビリ」などが語られた。⑵親の悪化した症状による被害とトラウマでは、「悪化した親の症状と繰り返された両親の叩き合いからの暴力からの被害、親から受けた被害によるトラウマ、人に経験を話すことによるトラウマの癒し」などが語られた。⑶病状を説明されないことによる困難において、「子どもへの親の精神疾患・治療に関する説明の欠如、説明を受けないことによる恐怖、疾患に関して学習した状況を理解、子ども自身の話を聞く人の欠如」などが語られた。⑷親や親族からの愛情を感じず翻弄された生活では、「暴力への恐怖と自信喪失、親からの愛情を感じない、親族から知る偏見と冷たさ、親の面倒を見るための子どもと感じたことによるショック」などが語られた。⑸唯一の理解者である弟との支え合い、「記憶の始まりは弟との同居であり弟が唯一の理解者、弟を守るための言動」などが語られた。⑹子ども自身の発達課題への親の病状による阻害においては、「遊びの時間を切り上げて行う家事や、親の病状に巻き込まれ子どもとして生きることの難しさ」などについて語られた。⑺教員・医療職・近隣住民の子どもへの踏み込まない関わりでは、「深まらない医療従事者や近隣住民の関わり、子どもの状況への理解がない教員、事情を理解した教員の関わり」などが論じられている。そしてこれらの語りから、生活支援の必要性や、子どもへの疾患説明の必要性、健常な大人とのかかわりの必要性などが論文内で論じられた。


第4章 結果

 2つのインタビュー調査の内容は独自の視点で考察されているが、本論文において研究目的に従って再構成してカテゴリーに分けた。結果は以下のとおりである。結果において用いた文章は、調査協力者の語りを『』内に示した。また、ⅰ~ⅵ、a~gにおける調査協力者の語り以外の文章は、論文著者の事例についての説明である。

事例A

メンタルヘルス問題の親を持つ子どもの経験    森田(2010)

―不安障害の親をケアする青年のライフストーリー―  引用

A氏 (23歳女性 社会福祉士及び精神保健福祉士を取得、現在(2010)病院の相談員として勤務中)

被介護者である母親(2010年現在67歳、主婦、不安障害でP市市内のQ精神科病院に外来通院中)

家族構成と援助者

父(68歳、会社員)

異父兄(39歳、R県在住、A氏との同居経験なし)

異父妹(35歳、S県在住 A氏との同居経験なし)

社会サービス利用

介護保険(要介護2)ホームヘルパー(週3回 30分/回)(65歳までは精神障害者ホームヘルプサービスを4年間利用)

母の友人Q氏

P市社会福祉協議会のボランティアR氏(現在はボランティアを終了後、知人としての付き合いとなっている)

経過

A氏の母親は44歳の時にA氏を出産。その後、育児ノイローゼでT病院神経科に3か月間入院した。退院後は、眩暈等の症状が続き横になって過ごすことが多かったため、T病院への外来通院を続けながら家政婦を雇い家事やA氏の世話をしてきた。 

 53歳の時(A氏が小学校3年生)に、火を使っている台所で眩暈のために倒れ、ぎっくり腰となったことをきっかけに、不安から一人で過ごすことや外出を嫌がり、横になったり起きて家の用事をしたりしながら自宅のアパート内で生活するようになった。母の不安は特に外が暗くなる夕方から夜間帯に強く、この間母は誰かがそばにいることを必要としている。さらに季節の変わり目には眩暈がひどく完全に寝込んでしまうため、トイレに自力で行くことが困難となった。A氏は2010現在において、洗濯、買い物、食事準備などの家事や、夕方から夜間にかけて母親の傍にいることや、母の調子が悪い時には整容の補助、おむつの着脱をする役割を担っている。大学2年生から援助を受けはじめ、A氏が仕事で家を空ける日中は、ホームヘルパーや母の知人のQ氏、R氏が介助を行っている。

ⅰ ケア役割への肯定感

初めてケア役割を担ったのは3歳の時、マンションの階下にあるパン屋へ買い物に行った時のことである。A家は家政婦を雇い、母がその家政婦を使って家事やA氏の世話を行っていた。そのような中、A氏は家の中の用事などを担い、しっかりすることを周囲から期待されていると意識するようになった。A『誰かが、「お母さんがこんなだから、Aちゃんにはしっかりしてもらわないと、今後困るよね」みたいな話をしたみたいで、そこで一人で買い物をさせてみようという話になったそうなんです』
その後A一家は父の経営する居酒屋の倒産をきっかけにP市へと引っ越した。当初母は簡単な料理を家で作っていたが、A氏が小学3年生のときに眩暈のために台所で倒れてからは、火を使った調理や買い物に出かけることを避けるようになった。家政婦を雇う余裕もなく、父は午後1時に帰宅するため、A氏に夕食用の惣菜等を近所の店まで買いに行く役割が任されるようになった。  先行研究では、二人親家庭で母親が病気や障害を持つ場合には、父親は介護者の役割よりも家計支持者の役割をとる傾向にあることが指摘されている。A氏にとって、母に代わり買い物の役割を担うことは、お店の人と親しくなり、母に代わりケア役割を担っていることを賞賛される嬉しい経験だった。

A『仲良しというか、「これあげるよ」とか、「おまけだよ」とか言ってもらうこともある。近所付き合いじゃないですけど、結構顔は知れてましたね。で、たまに母親とも行ったりすることがあるので、「お子さん、いつも偉いですねえ。いつも一人で来て」っていうような感じで、そこで結構話が弾んでということがあったりとか』

このような経験を通じて、A氏はケア役割を担う自身についていい子であるとの認識を形成していった。


ⅱ 同年代の友人関係の制限

 A氏は小学生の頃より、学校が終わったらまっすぐ帰ってくるように、と母親から言いつけられていた。友達と遊んで帰ると家から閉め出されてしまうこともあり、A氏は言いつけを守り帰宅していた。ある日A氏が演劇の主役に立候補し、見事に演じきった。このことは内弁慶で学校ではおとなしかったA氏が自分への自信を得て、友人たちの中に自分の居場所を見つける機会となった。その後A氏は母親に怒られることも構わず、放課後に旧友と遊び、帰宅するようになった。


A『フフフフ、(放課後友人と遊ぶことを)やってましたねえ。そうですね。そのころから、学校が楽しいなあって思うようになって。友人と放課後遊んだりするのとか。』

中学生になると、A氏はクラスでも目立つギャル系女子グループと付き合うようになった。彼女らは放課後学校に残りおしゃべりしたり、街に遊びに出かけたりしていた。A氏も放課後の活動に誘われたが、夕食の買い物のために誘いを断り帰宅しなければならなかった。高校では、お泊り会や文化祭の打ち上げなど、夜間に級友との交流が設けられるようになった。A氏は母に外出の許可を求めたが、許されなかった。次第にA氏は級友たちから付き合いが悪いんじゃない、と言われ学外の付き合いに誘われなくなっていった。卒業後も彼らから連絡が来ることはないという。このような経験を通じて、A氏は友人たちとのつながりの薄さと伴に、母の傍で過ごすことを拘束と感じるようになった。

A『特に何か私が母親の世話をするっていうわけではなく、ただいなきゃいけないっていうことなんですかね。うん。それで何か拘束っていうか、そういうのがありましたね。』


ⅲ 社会的排斥、疎外感

中学生のある日、A氏がいつものように買い物を終え荷物でいっぱいのスーパーのレジ袋を両手に提げて歩いていると、クラスの女子グループに会った。町で遊んでいた彼女たちはA氏を見つけると、「えっなんで買い物なんてしてんの。えっ、それ、なに~」、「それ、ダサくない」と声をかけてきた。彼らの反応をA氏は、「馬鹿にされた」、「自分たちとは違う目で見られた」と感じたという。A氏がなぜ「自分とは違う目で見られた」と受け取ったのか、(森田2010)は「なぜ彼らはそんなこと言ったんだろう。彼らはいろんな家庭があるのがわからなかったのだろうか。」とA氏に尋ねた。するとA氏は次のように自身の解釈を示してくれた。

A『そうですね。わかんなかったと思いますね。私たちからすれば、親が買い物に行って、自分たちは遊びに行くというのが当たり前だったので。』このように、「親が買い物に行って、自分たちは遊びに行く」、これがA氏と女子グループが「当たり前」の親子の役割関係として共有する言説であったという。

母が買い物や料理をしない状態が続く中、A氏は不満を母親に直接ぶつけるようになっていった。それは母が「それなら、私が死ねばいいんでしょう」と家を飛び出そうとする事態に発展することもあった。また、母親と喧嘩したときには、

A『死ななければならないというので、「じゃあ、私の不満はどこにやったらいいの?」っていう思いがあったりだとか、すごく嫌でしたね。私のせいで誰かが死ぬなんて』

不満のやり場に困ったA氏は「誰かに自分の話を聴いてほしい」と願い相談相手を探すようになったが、父は仕事で忙しく、また異父兄弟には遠慮がある中、不満を話せる相手は母のみだった。またA氏は友人に「母のことをぐちりたい」と思ったが、実際に母のことを打ち明けること打ち明けることはためらわれた。A氏はその理由を、父から「そういうことは人に言うなよ」と言われていたからだと話す。

A『何か目に見える病気じゃないじゃないですか。うん。どこか骨折したとかだったら、それこそ皆に言えるんですけど。目に見える病気でもないし、そのころ私も何が悪いんだろうって、いまいちわからないところで、そこで話してもどう思われるかなぁっていう……。それでまた、「遊びに行くなって怒られるの?」「それっておかしいんじゃなぁい?」ってなるんだったら、変に思われるかなぁっていうのがあって……。』

ⅳ メンタルヘルス問題への知識、病状を説明されないことによる困難

 以上のことにより、A氏はケア役割である買い物をすることを、人と違う、おかしい行為だと認識するようになった。そして母親に、普通の親のように買い物や料理をすることを要求するようになった。

A『母に言ってもどうしようもないし。何回か言ってましたけど。でも母親は「しょうがないでしょう、あなたはそういう家庭に生まれたんだから」の一言で終わってしまうので。そう言われてしまうと、もう、あの、母親が「やる」とは絶対に言わないので。』

A『どちらかと言えば、母親が具合が悪くなった時には、下の世話も私がやっていたというところで、本当に……何だろうな、母親らしいことを本当にしてきた?っていう思いがちょっと……。今はもう大分、それはもう病気だから仕方ないんだって割り切れるところはあるんですけど。高校生くらいまでは、それは全くなくって、何で母親なのに料理作らないの、掃除もしないし、何で普通の母親みたいに出来ないの?っていうところがあって』

現在のA氏は、母の一人で外出せず買い物に行かない状態を「予期不安」と説明する。中学生のA氏は、母の状態を「頑張ればできるにも関わらず、やろうとしていない」と理解していたのだという。A氏の母親は病院に通っていたため、この病院が母の状態に対する理解を支援する可能性のある機関である。A氏は小学校の頃より母の通院に付き添い、診察に同席してきた。

A『そういうのは話してないですね。どうしても、私と先生は一対一にならないので。ああ。親と一緒で、私がついでにって感じで、言えないですね、本人を前にして。』

このように、診察では医師に母の様子について尋ねられ、A氏が話をすることはあったが、それはあくまでついでであった。このように、母親の病状について正確な情報を知ることはできなかった。

ⅴ 他者への秘密の打ち明け

 母が買い物や料理をしない状態が続く中、A氏は不満を母親に直接ぶつけるようになっていった。それは母が「それなら、私が死ねばいいんでしょう」と家を飛び出そうとする事態に発展することもあった。

A『死ななければならないというので、「じゃあ、私の不満はどこにやったらいいの?」っていう思いがあったりだとか、すごく嫌でしたね。私のせいで誰かが死ぬなんて』

不満のやり場に困ったA氏は「誰かに自分の話を聴いてほしい」と願い相談相手を探すようになったが、父は仕事で忙しく、また異父兄弟には遠慮がある中、不満を話せる相手は母のみだった。またA氏は友人に「母のことをぐちりたい」と思ったが、実際に母のことを打ち明けること打ち明けることはためらわれた。A氏はその理由を、父から「そういうことは人に言うなよ」と言われていたからだと話す。

A『何か目に見える病気じゃないじゃないですか。うん。どこか骨折したとかだったら、それこそ皆に言えるんですけど。目に見える病気でもないし、そのころ私も何が悪いんだろうって、いまいちわからないところで、そこで話してもどう思われるかなぁっていう……。それでまた、「遊びに行くなって怒られるの?」「それっておかしいんじゃなぁい?」ってなるんだったら、変に思われるかなぁっていうのがあって……。』

 A氏にとって、母のことを打ち明けることは、相手から「おかしい」と非難される危険に身を置くことを意味していた。そのため、A氏は母のことを打ち明けないことにより、A氏や母が「おかしい」と非難されることを避け、また表面的になりがちな友人たちとの関係を守ろうとしてきたのである。

 子どもはメンタルヘルス問題のある親との葛藤をめぐる自分の話を誰かに聴いてほしいと願う一方で、自分の話をきいてくれる場を見つけることの困難を経験していた。

ⅵ 自身の境遇の受容

 A氏は、母との喧嘩の中で次第に、母に期待することをあきらめ、母が「普通」の親のようにできないのは仕方ないと「現実を認める」ようになっていった。

A『高校ぐらいから徐々に徐々にできるようになってきましたかね。逆にそう思わないと自分がしんどいなっと思ってしまって。いつまでも自分の中で、なんでこんなにできないんだろう、やんないんだろうと思っているよりかは、逆にこっちが諦めるというか、仕方ないと割り切ったら、少しは気持ちも楽になるのかなって、だんだんと、中学の喧嘩以降、小さな喧嘩を繰り返すたびに思い始めて。それで、だんだんと割り切りできてきたという感じですね。喧嘩の度に話しても無駄だなって思いだして。』

大学ではA氏は社会福祉を専攻した。A氏が社会福祉を専攻したのは、A氏が子どもの頃から力を注いできたのは母の介護であり、その介護に役立つことを学びたいと思ったからである。将来も、介護者の役割を担っていくことを見通した選択であった。母もA氏が自分を助けてくれるのだと、A氏の選択を歓迎していた。

A『言っても仕方ないというところから始まって、大学に入ってからですかね。福祉を学ぶようになって、こういう人もいるんだということを漠然とわかるようになってきて。で、そこで「あっ、仕方ない」って割り切れるようになってきましたね。

A氏は大学で得たメンタルヘルス問題に関する知識や、「できない状態」にある人がいることの学びを、自身の親の状態と結び付けていくようになった。そして、親が「できない状態」にあるのは仕方ないことだと「現状を認め」、「割り切る」に至ったのだという。


2)事例B

統合失調症を患う母親と暮らした娘の経験から 

田野中恭子・遠藤 淑美・永井 香織・芝山 江美子(2016)   引用

B氏40代女性

家族構成

父(インタビュー時死亡)、母(統合失調症)、祖母(別居)、弟(一時期施設入所)

経過

統合失調症を患う母親はBを出産前から発症し、出産後も入退院を繰り返していた。ケア役割は3歳の頃から行っている。B氏が小学校入学以降、施設に入所していた弟が自宅に戻り、インタビュー時には父親はなくなり、母親と弟との3人暮らしであった。また、Bが中学校の頃までは、近県で暮らす母方の祖母が月に1,2度来て、食事の作り置きをしていた。母親は実の祖父母から実家への出入りを拒否され、父方の親戚からも母親のことを非難されていた。

日常の家事に関しては、父親が買い物をするが食事作りが苦手なため、B氏が小学校低学年から家事全般を担っていた。父親は働かず、また障害者年金も受給していなかったため、経済的に厳しく高校には奨学金を得て進学し、身の回りのものはB氏がアルバイトをして購入していた。卒業後は就職し、家を出て寮生活を送るが、週に1,2度は帰宅し家事を行った。


a 家庭機能の欠如とケア役割

 B氏が小学生の頃は母親の病状も悪く、父親は家事ができないため、朝食を食べず下校し、給食を食べて栄養をとっていた。夕食は父親が何かを買ってくるか、インスタントラーメンを作っていた。B氏は子どもの頃から身の回りの世話を受けた記憶がなく、幼少期から食事や身の回りの世話をする人が不在であった。近隣に住む祖母は月に1,2度来て、食事を置いていった。しかし、若くない祖母は食事の用意が限界で、父親との折り合いも悪いことから、すぐに帰って行ったため、家事等の日常生活について祖母から教わることはなく、B氏は模索しながら家事を行っていた。そのような状況の中で、B氏は遊びの時間を切り上げ家事を担っていた。しかし家事については教えてくれる人はおらず、小学生が家事に苦慮する体験が語られた。

B『一番ショックだったのは、学校の遠足でおにぎりを持って行かないといけなかったこと。おにぎりの作り方が全く分からないので、白いご飯をきゅっきゅっと丸めて。サランラップが何かわからなかったので、ビニール袋に入れて持って行った。で、学校の先生が気の毒に思って、おにぎりと交換してくれた。そういうのは困ったし、いい思い出じゃないね。だから、今でも家事にちょっと自信がないところが残る』

B『食事の作り方は、学校の図書館にある子どものための料理の本を買ってやった。本を見ても全然作り方がわからなくて困ったなあと思った。うちは計りもなかったから、カレーのルーを買ってきたけど、水の量が全く分からなくてびしゃびしゃのができて、カレーじゃなかった』

 また、世話をする人の不在と貧困から、成長に合わせた服や下着を買うことができず、体の成長変化に一人で対応できない困りごとと恥ずかしさも語られた。

B『(生理のことを)授業で説明を受けても、一回だけだし、覚えていない。実際にきたらもうびっくりした。下着類をどのように使えばいいかも分からない。先生にも友達にも恥ずかしくて聞けない(中略)、普通の家ではめでたいことなんだろうけど、私にとっては最悪なことだった。ほんとはずかしくて』

そのような中で、友達との家の違いに驚き、友達から普通の生活を知るという状況だった。高校卒業後に家を出て寮生活を始めた時には、普通の生活の仕方が分からず、B「こんなことも知らないって、もうこの歳で言われるのも、何だしなと思って、周りに聞けなかった。手探りだった。ほんと恥ずかしくて」と語った。

このように、成長過程で家事等を教えられず、普通の生活の仕方が分からないことによる自信のなさについて繰り返し語られた。さらに、B『(子どもの頃に)家事をやっていてもこれでいいよって言ってもらったわけではないから何か自信がないところが残っている。』(承認されないことによる自信のなさ)と語り、生活や人との関わりについて一生続く生活のリハビリと表現した。

b 日常生活でかかわりのある人々の子どもへの踏み込まない関わり

B氏は誰からも家事や身の回りの用意について教えられず、自分で模索しながら時には恥ずかしい思いをして生きてきた。例えば、食事の作り方は、学校の図書館にある子どものための料理の本を買ってやった。本を見ても全然作り方がわからなくて困ったなあと思った。おにぎりの作り方が全く分からないので、白いご飯をきゅっきゅっと丸めて。サランラップが何かわからなかったので、ビニール袋に入れて持って行った。で、学校の先生が気の毒に思って、おにぎりと交換してくれた。

他に近隣住民には、母親が騒ぐことから家庭の状況は知られており、B氏が発熱したときに一度だけお粥を持ってきてくれる人がいたが、関わり続ける人はいなかった。幼少期に入院する母親を見舞ったB氏に声をかけた看護師や、成長してから病院に行った際に高校時代のB氏を覚えていて声をかけたワーカーがいたが、相談できる人はいなかった。

また学校では、母親の状況は教員にも知られていたが、小中学生の時は教員から何か聞かれることもなく、母親が原因となって起こる書類の破損や火事騒ぎなどに対してB氏やB氏の弟が叱責を受けるのみであった。この状況からB氏は「安心できる場所はなかった」と語った。

 その一方で、家庭の状況を知った高校教員の関わりだけは覚えているという。B「父親が(教員に)何か言って、先生がわりと褒めてくれた。『Bはがんばってるからちょっと(勉強を)見てあげて』とほかの教員に話してくれたのは覚えている。親の状態が分かった上で、ちょっと見てくれたり声をかけてくれたりすると本当に助かるなと思う。」と語った。

親戚との関わりについては、祖母以外の親族が家に来ることはなく、母親が実家の祖父母宅に来ることも、祖父母の葬式時にも母親が来ることを拒否した。近隣に住む祖母は月に1,2度来て、食事を置いていった。しかし、若くない祖母は食事の用意が限界で、父親との折り合いも悪いことから、すぐに帰って行ったため、家事等の日常生活について祖母から教わることはなく、B氏は模索しながら家事を行っていた。

B『やっぱり個人的に一目合わせてあげたかった(中略)。孫としてはかわいがってくれたけど、そういう冷たい、要はこういう病気を持っていると、偏見というのは親戚からくるんだなということを学んだ。だから、お婆さんがいてくれたことはよかったけど、最終的にそういう仲の悪さが残って、あんまり信頼感がね(ない)』

 また、母親は弟を妊娠した際、祖母から「(母親の)面倒を見る子は一人でいい」と言われている。このことを聞き、B氏は自分が母親の面倒を見るために生まれたと感じ、とてもショックだったと語った。


c 親の症状による被害

 家庭生活だけでなく、悪化した親の症状と繰り返された両親の喧嘩からの被害も語られた。

B『小学生の頃は困ったことばかりだった。何か突然妙なことをやりだした。母親が私の服(ポケット)にマッチを入れて、学校にいる間に出火して大騒ぎになり、先生にひどく怒られた。弟も、(母親に)大切な書類を全部破られて、学校で説明できずに泣いてた』母親は入退院を繰り返すが、退院後、本人は服薬することもなく、また誰からも服薬を勧められず、1か月もすると病状が悪化した。

B『子どもの頃、母親が突然何かぶつぶつ言いだし、辞書を破きだして、何かおかしくなると、大概父親と母親がばんばん叩き合って、見ている方も気がきではなかった。(中略)、高校の時は家に入れないこともあったし、お風呂のガスの火をつけて煮出して暴れて、弟と一緒に逃げなくちゃと言って、手を引いて、がーっと逃げて(中略)。とにかく逃げる逃げる。父親がいると(母親の)顔をパンパンて殴って、それから母親が逃げて、近所の家の戸を叩き、ようやく父親が救急車を呼ぶと、病院か何かに通報が入って、(母親を)連れて行ってくれるって感じ』

 このような経験を通して親の症状悪化への介入の必要性を語った。また成人してからも、母親への怖い気持ちが残り続け、また男性が怒ると委縮して怖いという思いがあり、親から受けた被害によるトラウマになっていた。

 B氏は経験していない人にはわからない体験と話し、他人に家庭のことを話すことはなく、人に話すには過大な勇気が必要だったという。しかしこのようなトラウマに対して、成人してから、ある講演会でトラウマからの回復について聞いた後に、自らも人に体験を話すことによるトラウマの癒しを経験し、現在は精神疾患を患う親を持つ子どもの集いにも参加している。


d 友人関係の制限と弟との支えあい

そのような中で、友達との家の違いに驚き、友達から普通の生活を知るという状況だった。高校卒業後に家を出て寮生活を始めた時には、普通の生活の仕方が分からず、B『こんなことも知らないって、もうこの歳で言われるのも、何だしなと思って、周りに聞けなかった。手探りだった。ほんと恥ずかしくて。』このように、成長過程で家事等を教えられず、普通の生活の仕方が分からないことによる自信のなさについて繰り返し語られた。

B『(子どもの頃に)家事をやっていてもこれでいいよって言ってもらったわけではないから何か自信がないところが残っている。』(承認されないことによる自信のなさ)と語り、生活や人との関わりについて一生続く生活のリハビリと表現した。

小学生時代は友達との関係は悪くなかったという。しかし、家事があるため放課後に1,2時間遊んだら家に帰り、弟と共に洗濯や夕飯づくりを行った。高校時代は母親の病状が少し落ち着き、成長してきた弟の世話も少なくなった。B氏は夕方まで続く授業や部活動にも参加でき、B自身の発達に合わせた活動時間を持てるようになった。またアルバイトで収入を得ることで、必要なものを少しは自分で買えるようになった。B氏は主に小中学生の時期に、子どもとして過ごせる時間を十分に持てず、家事を行い、親の病状にいや応なしに巻き込まれていた。また、家事等の日常生活について祖母から教わることはなく、B氏は模索しながら家事を行っていた。そのような状況の中で、B氏は遊びの時間を切り上げ、家事を担っていた。


B『施設か何かに入っていた弟が戻ってきた頃(B氏が小学校低学年)からしか自分の記憶が始まらない。弟だけが唯一の私の支援者というか、理解者』と語った。また、食事や身の回りの世話をされず、母親の病状悪化に伴う家庭内の混乱の中で、B『弟がかわいそうなので(食事)を作らなきゃと思ってやりだした』、『弟が怖がっているから、こいつだけは何とか守ってやらなきゃって。母親が何をするか分からないから。ともかく弟の手を引いて逃げようと思って、もう夜中でも逃げた』と語った

e 関心の偏り

B氏が小学生の頃は母親の病状も悪く、父親は家事ができないため、朝食を食べず下校し、給食を食べて栄養をとっていた。夕食は父親が何かを買ってくるか、インスタントラーメンを作っていた。B氏は子どもの頃から身の回りの世話を受けた記憶がなく、幼少期から食事や身の回りの世話をする人が不在であった。近隣に住む祖母は月に1,2度来て、食事を置いていった。また、精神疾患を患う母親は病状が落ち着くと無理に習い事に通わせ、病状の悪化に伴い子どもに関心を持たなくなった。父親は怒るとB氏に手を挙げた。

B『(親は)怒るってことがうまくできない。要は躾の意味で叱るっていうのかな。だから怒られると、委縮してしまってどう答えていいかわからない。今でも男の人に怒られるのが苦手(中略)。根底に人に怒られると委縮するし、何となく自信がないところが残った。それが一番困ること』こうした状況に対して、大人になってから働く中で叱られることを学んでいるという。

B『どっちかの親が上手く親として機能してくれればよかったのだろうけど、両親ともに子どもに関心がなかった。(中略)父親の関心や愛情は母親に注がれていた。子どもはある意味、愛情というよりも、置いとけば、身の回りのことをやってくれるなぐらいの存在だったので愛情の対象ではなかったと思う』と語った。

また、B氏と一緒にお風呂に入ってくれ、「入浴方法がわかったことはよかった」という。

そして、世話をする人の不在と貧困から、成長に合わせた服や下着を買うことができず、体の成長変化に一人で対応できない困りごとと恥ずかしさも語られた。

B『(生理のことを)授業で説明を受けても、一回だけだし、覚えていない。実際にきたらもうびっくりした。下着類をどのように使えばいいかも分からない。先生にも友達にも恥ずかしくて聞けない(中略)、普通の家ではめでたいことなんだろうけど、私にとっては最悪なことだった。ほんとはずかしくて。」



家族構成と援助者

父(68歳、会社員)

異父兄(39歳、R県在住、A氏との同居経験なし)

異父妹(35歳、S県在住 A氏との同居経験なし)


社会サービス利用

介護保険(要介護2)ホームヘルパー(週3回 30分/回)(65歳までは精神障害者ホームヘルプサービスを4年間利用)

母の友人Q氏

P市社会福祉協議会のボランティアR氏(現在はボランティアを終了後、知人としての付き合いとなっている)


経過

A氏の母親は44歳の時にA氏を出産。その後、育児ノイローゼでT病院神経科に3か月間入院した。退院後は、眩暈等の症状が続き横になって過ごすことが多かったため、T病院への外来通院を続けながら家政婦を雇い家事やA氏の世話をしてきた。 

 53歳の時(A氏が小学校3年生)に、火を使っている台所で眩暈のために倒れ、ぎっくり腰となったことをきっかけに、不安から一人で過ごすことや外出を嫌がり、横になったり起きて家の用事をしたりしながら自宅のアパート内で生活するようになった。母の不安は特に外が暗くなる夕方から夜間帯に強く、この間母は誰かがそばにいることを必要としている。さらに季節の変わり目には眩暈がひどく完全に寝込んでしまうため、トイレに自力で行くことが困難となった。A氏は2010現在において、洗濯、買い物、食事準備などの家事や、夕方から夜間にかけて母親の傍にいることや、母の調子が悪い時には整容の補助、おむつの着脱をする役割を担っている。大学2年生から援助を受けはじめ、A氏が仕事で家を空ける日中は、ホームヘルパーや母の知人のQ氏、R氏が介助を行っている。


ⅰ ケア役割への肯定感

初めてケア役割を担ったのは3歳の時、マンションの階下にあるパン屋へ買い物に行った時のことである。A家は家政婦を雇い、母がその家政婦を使って家事やA氏の世話を行っていた。そのような中、A氏は家の中の用事などを担い、しっかりすることを周囲から期待されていると意識するようになった。


A『誰かが、「お母さんがこんなだから、Aちゃんにはしっかりしてもらわないと、今後困るよね」みたいな話をしたみたいで、そこで一人で買い物をさせてみようという話になったそうなんです』


その後A一家は父の経営する居酒屋の倒産をきっかけにP市へと引っ越した。当初母は簡単な料理を家で作っていたが、A氏が小学3年生のときに眩暈のために台所で倒れてからは、火を使った調理や買い物に出かけることを避けるようになった。家政婦を雇う余裕もなく、父は午後1時に帰宅するため、A氏に夕食用の惣菜等を近所の店まで買いに行く役割が任されるようになった。  先行研究では、二人親家庭で母親が病気や障害を持つ場合には、父親は介護者の役割よりも家計支持者の役割をとる傾向にあることが指摘されている。A氏にとって、母に代わり買い物の役割を担うことは、お店の人と親しくなり、母に代わりケア役割を担っていることを賞賛される嬉しい経験だった。


A『仲良しというか、「これあげるよ」とか、「おまけだよ」とか言ってもらうこともある。近所付き合いじゃないですけど、結構顔は知れてましたね。で、たまに母親とも行ったりすることがあるので、「お子さん、いつも偉いですねえ。いつも一人で来て」っていうような感じで、そこで結構話が弾んでということがあったりとか』


このような経験を通じて、A氏はケア役割を担う自身についていい子であるとの認識を形成していった。


ⅱ 同年代の友人関係の制限

 A氏は小学生の頃より、学校が終わったらまっすぐ帰ってくるように、と母親から言いつけられていた。友達と遊んで帰ると家から閉め出されてしまうこともあり、A氏は言いつけを守り帰宅していた。ある日A氏が演劇の主役に立候補し、見事に演じきった。このことは内弁慶で学校ではおとなしかったA氏が自分への自信を得て、友人たちの中に自分の居場所を見つける機会となった。その後A氏は母親に怒られることも構わず、放課後に旧友と遊び、帰宅するようになった。


A『フフフフ、(放課後友人と遊ぶことを)やってましたねえ。そうですね。そのころから、学校が楽しいなあって思うようになって。友人と放課後遊んだりするのとか。』

中学生になると、A氏はクラスでも目立つギャル系女子グループと付き合うようになった。彼女らは放課後学校に残りおしゃべりしたり、街に遊びに出かけたりしていた。A氏も放課後の活動に誘われたが、夕食の買い物のために誘いを断り帰宅しなければならなかった。高校では、お泊り会や文化祭の打ち上げなど、夜間に級友との交流が設けられるようになった。A氏は母に外出の許可を求めたが、許されなかった。次第にA氏は級友たちから付き合いが悪いんじゃない、と言われ学外の付き合いに誘われなくなっていった。卒業後も彼らから連絡が来ることはないという。このような経験を通じて、A氏は友人たちとのつながりの薄さと伴に、母の傍で過ごすことを拘束と感じるようになった。

A『特に何か私が母親の世話をするっていうわけではなく、ただいなきゃいけないっていうことなんですかね。うん。それで何か拘束っていうか、そういうのがありましたね。』

ⅲ 社会的排斥、疎外感

中学生のある日、A氏がいつものように買い物を終え荷物でいっぱいのスーパーのレジ袋を両手に提げて歩いていると、クラスの女子グループに会った。町で遊んでいた彼女たちはA氏を見つけると、「えっなんで買い物なんてしてんの。えっ、それ、なに~」、「それ、ダサくない」と声をかけてきた。彼らの反応をA氏は、「馬鹿にされた」、「自分たちとは違う目で見られた」と感じたという。A氏がなぜ「自分とは違う目で見られた」と受け取ったのか、(森田2010)は「なぜ彼らはそんなこと言ったんだろう。彼らはいろんな家庭があるのがわからなかったのだろうか。」とA氏に尋ねた。するとA氏は次のように自身の解釈を示してくれた。


A『そうですね。わかんなかったと思いますね。私たちからすれば、親が買い物に行って、自分たちは遊びに行くというのが当たり前だったので。』このように、「親が買い物に行って、自分たちは遊びに行く」、これがA氏と女子グループが「当たり前」の親子の役割関係として共有する言説であったという。

母が買い物や料理をしない状態が続く中、A氏は不満を母親に直接ぶつけるようになっていった。それは母が「それなら、私が死ねばいいんでしょう」と家を飛び出そうとする事態に発展することもあった。


また、母親と喧嘩したときには、


A『死ななければならないというので、「じゃあ、私の不満はどこにやったらいいの?」っていう思いがあったりだとか、すごく嫌でしたね。私のせいで誰かが死ぬなんて』


不満のやり場に困ったA氏は「誰かに自分の話を聴いてほしい」と願い相談相手を探すようになったが、父は仕事で忙しく、また異父兄弟には遠慮がある中、不満を話せる相手は母のみだった。またA氏は友人に「母のことをぐちりたい」と思ったが、実際に母のことを打ち明けること打ち明けることはためらわれた。A氏はその理由を、父から「そういうことは人に言うなよ」と言われていたからだと話す。


A『何か目に見える病気じゃないじゃないですか。うん。どこか骨折したとかだったら、それこそ皆に言えるんですけど。目に見える病気でもないし、そのころ私も何が悪いんだろうって、いまいちわからないところで、そこで話してもどう思われるかなぁっていう……。それでまた、「遊びに行くなって怒られるの?」「それっておかしいんじゃなぁい?」ってなるんだったら、変に思われるかなぁっていうのがあって……。』



ⅳ メンタルヘルス問題への知識、病状を説明されないことによる困難

 以上のことにより、A氏はケア役割である買い物をすることを、人と違う、おかしい行為だと認識するようになった。そして母親に、普通の親のように買い物や料理をすることを要求するようになった。

A『母に言ってもどうしようもないし。何回か言ってましたけど。でも母親は「しょうがないでしょう、あなたはそういう家庭に生まれたんだから」の一言で終わってしまうので。そう言われてしまうと、もう、あの、母親が「やる」とは絶対に言わないので。』

A『どちらかと言えば、母親が具合が悪くなった時には、下の世話も私がやっていたというところで、本当に……何だろうな、母親らしいことを本当にしてきた?っていう思いがちょっと……。今はもう大分、それはもう病気だから仕方ないんだって割り切れるところはあるんですけど。高校生くらいまでは、それは全くなくって、何で母親なのに料理作らないの、掃除もしないし、何で普通の母親みたいに出来ないの?っていうところがあって』

現在のA氏は、母の一人で外出せず買い物に行かない状態を「予期不安」と説明する。中学生のA氏は、母の状態を「頑張ればできるにも関わらず、やろうとしていない」と理解していたのだという。A氏の母親は病院に通っていたため、この病院が母の状態に対する理解を支援する可能性のある機関である。A氏は小学校の頃より母の通院に付き添い、診察に同席してきた。

A『そういうのは話してないですね。どうしても、私と先生は一対一にならないので。ああ。親と一緒で、私がついでにって感じで、言えないですね、本人を前にして。』

このように、診察では医師に母の様子について尋ねられ、A氏が話をすることはあったが、それはあくまでついでであった。このように、母親の病状について正確な情報を知る



ことはできなかった。


ⅴ 他者への秘密の打ち明け

 母が買い物や料理をしない状態が続く中、A氏は不満を母親に直接ぶつけるようになっていった。それは母が「それなら、私が死ねばいいんでしょう」と家を飛び出そうとする事態に発展することもあった。

A『死ななければならないというので、「じゃあ、私の不満はどこにやったらいいの?」っていう思いがあったりだとか、すごく嫌でしたね。私のせいで誰かが死ぬなんて』

不満のやり場に困ったA氏は「誰かに自分の話を聴いてほしい」と願い相談相手を探すようになったが、父は仕事で忙しく、また異父兄弟には遠慮がある中、不満を話せる相手は母のみだった。またA氏は友人に「母のことをぐちりたい」と思ったが、実際に母のことを打ち明けること打ち明けることはためらわれた。A氏はその理由を、父から「そういうことは人に言うなよ」と言われていたからだと話す。

A『何か目に見える病気じゃないじゃないですか。うん。どこか骨折したとかだったら、それこそ皆に言えるんですけど。目に見える病気でもないし、そのころ私も何が悪いんだろうって、いまいちわからないところで、そこで話してもどう思われるかなぁっていう……。それでまた、「遊びに行くなって怒られるの?」「それっておかしいんじゃなぁい?」ってなるんだったら、変に思われるかなぁっていうのがあって……。』

 A氏にとって、母のことを打ち明けることは、相手から「おかしい」と非難される危険に身を置くことを意味していた。そのため、A氏は母のことを打ち明けないことにより、A氏や母が「おかしい」と非難されることを避け、また表面的になりがちな友人たちとの関係を守ろうとしてきたのである。

 子どもはメンタルヘルス問題のある親との葛藤をめぐる自分の話を誰かに聴いてほしいと願う一方で、自分の話をきいてくれる場を見つけることの困難を経験していた。


ⅵ 自身の境遇の受容

 A氏は、母との喧嘩の中で次第に、母に期待することをあきらめ、母が「普通」の親のようにできないのは仕方ないと「現実を認める」ようになっていった。


A『高校ぐらいから徐々に徐々にできるようになってきましたかね。逆にそう思わないと自分がしんどいなっと思ってしまって。いつまでも自分の中で、なんでこんなにできないんだろう、やんないんだろうと思っているよりかは、逆にこっちが諦めるというか、仕方ないと割り切ったら、少しは気持ちも楽になるのかなって、だんだんと、中学の喧嘩以降、小さな喧嘩を繰り返すたびに思い始めて。それで、だんだんと割り切りできてきたという感じですね。喧嘩の度に話しても無駄だなって思いだして。』


大学ではA氏は社会福祉を専攻した。A氏が社会福祉を専攻したのは、A氏が子どもの頃から力を注いできたのは母の介護であり、その介護に役立つことを学びたいと思ったからである。将来も、介護者の役割を担っていくことを見通した選択であった。母もA氏が自分を助けてくれるのだと、A氏の選択を歓迎していた。

A『言っても仕方ないというところから始まって、大学に入ってからですかね。福祉を学ぶようになって、こういう人もいるんだということを漠然とわかるようになってきて。



で、そこで「あっ、仕方ない」って割り切れるようになってきましたね。』


A氏は大学で得たメンタルヘルス問題に関する知識や、「できない状態」にある人がいることの学びを、自身の親の状態と結び付けていくようになった。そして、親が「できない状態」にあるのは仕方ないことだと「現状を認め」、「割り切る」に至ったのだという。




2)事例B

統合失調症を患う母親と暮らした娘の経験から 

田野中恭子・遠藤 淑美・永井 香織・芝山 江美子(2016)   引用

B氏40代女性

家族構成

父(インタビュー時死亡)、母(統合失調症)、祖母(別居)、弟(一時期施設入所)


経過

統合失調症を患う母親はBを出産前から発症し、出産後も入退院を繰り返していた。ケア役割は3歳の頃から行っている。B氏が小学校入学以降、施設に入所していた弟が自宅に戻り、インタビュー時には父親はなくなり、母親と弟との3人暮らしであった。また、Bが中学校の頃までは、近県で暮らす母方の祖母が月に1,2度来て、食事の作り置きをしていた。母親は実の祖父母から実家への出入りを拒否され、父方の親戚からも母親のことを非難されていた。

日常の家事に関しては、父親が買い物をするが食事作りが苦手なため、B氏が小学校低学年から家事全般を担っていた。父親は働かず、また障害者年金も受給していなかったため、経済的に厳しく高校には奨学金を得て進学し、身の回りのものはB氏がアルバイトをして購入していた。卒業後は就職し、家を出て寮生活を送るが、週に1,2度は帰宅し家事を行った。


a 家庭機能の欠如とケア役割

 B氏が小学生の頃は母親の病状も悪く、父親は家事ができないため、朝食を食べず下校し、給食を食べて栄養をとっていた。夕食は父親が何かを買ってくるか、インスタントラーメンを作っていた。B氏は子どもの頃から身の回りの世話を受けた記憶がなく、幼少期から食事や身の回りの世話をする人が不在であった。近隣に住む祖母は月に1,2度来て、食事を置いていった。しかし、若くない祖母は食事の用意が限界で、父親との折り合いも悪いことから、すぐに帰って行ったため、家事等の日常生活について祖母から教わることはなく、B氏は模索しながら家事を行っていた。そのような状況の中で、B氏は遊びの時間を切り上げ家事を担っていた。しかし家事については教えてくれる人はおらず、小学生が家事に苦慮する体験が語られた。

B『一番ショックだったのは、学校の遠足でおにぎりを持って行かないといけなかったこ



と。おにぎりの作り方が全く分からないので、白いご飯をきゅっきゅっと丸めて。サランラップが何かわからなかったので、ビニール袋に入れて持って行った。で、学校の先生が気の毒に思って、おにぎりと交換してくれた。そういうのは困ったし、いい思い出じゃないね。だから、今でも家事にちょっと自信がないところが残る』

B『食事の作り方は、学校の図書館にある子どものための料理の本を買ってやった。本を見ても全然作り方がわからなくて困ったなあと思った。うちは計りもなかったから、カレーのルーを買ってきたけど、水の量が全く分からなくてびしゃびしゃのができて、カレーじゃなかった』


 また、世話をする人の不在と貧困から、成長に合わせた服や下着を買うことができず、体の成長変化に一人で対応できない困りごとと恥ずかしさも語られた。

B『(生理のことを)授業で説明を受けても、一回だけだし、覚えていない。実際にきたらもうびっくりした。下着類をどのように使えばいいかも分からない。先生にも友達にも恥ずかしくて聞けない(中略)、普通の家ではめでたいことなんだろうけど、私にとっては最悪なことだった。ほんとはずかしくて』


そのような中で、友達との家の違いに驚き、友達から普通の生活を知るという状況だった。高校卒業後に家を出て寮生活を始めた時には、普通の生活の仕方が分からず、B「こんなことも知らないって、もうこの歳で言われるのも、何だしなと思って、周りに聞けなかった。手探りだった。ほんと恥ずかしくて」と語った。

このように、成長過程で家事等を教えられず、普通の生活の仕方が分からないことによる自信のなさについて繰り返し語られた。さらに、B『(子どもの頃に)家事をやっていてもこれでいいよって言ってもらったわけではないから何か自信がないところが残っている。』(承認されないことによる自信のなさ)と語り、生活や人との関わりについて一生続く生活のリハビリと表現した。


b 日常生活でかかわりのある人々の子どもへの踏み込まない関わり

B氏は誰からも家事や身の回りの用意について教えられず、自分で模索しながら時には恥ずかしい思いをして生きてきた。例えば、食事の作り方は、学校の図書館にある子どものための料理の本を買ってやった。本を見ても全然作り方がわからなくて困ったなあと思った。おにぎりの作り方が全く分からないので、白いご飯をきゅっきゅっと丸めて。サランラップが何かわからなかったので、ビニール袋に入れて持って行った。で、学校の先生が気の毒に思って、おにぎりと交換してくれた。

他に近隣住民には、母親が騒ぐことから家庭の状況は知られており、B氏が発熱したときに一度だけお粥を持ってきてくれる人がいたが、関わり続ける人はいなかった。幼少期に入院する母親を見舞ったB氏に声をかけた看護師や、成長してから病院に行った際に高校時代のB氏を覚えていて声をかけたワーカーがいたが、相談できる人はいなかった。

また学校では、母親の状況は教員にも知られていたが、小中学生の時は教員から何か聞かれることもなく、母親が原因となって起こる書類の破損や火事騒ぎなどに対してB氏やB氏の弟が叱責を受けるのみであった。この状況からB氏は「安心できる場所はなかった」と語った。

 その一方で、家庭の状況を知った高校教員の関わりだけは覚えているという。B「父親が(教員に)何か言って、先生がわりと褒めてくれた。『Bはがんばってるからちょっと



(勉強を)見てあげて』とほかの教員に話してくれたのは覚えている。親の状態が分かった上で、ちょっと見てくれたり声をかけてくれたりすると本当に助かるなと思う。」と語った。

親戚との関わりについては、祖母以外の親族が家に来ることはなく、母親が実家の祖父母宅に来ることも、祖父母の葬式時にも母親が来ることを拒否した。近隣に住む祖母は月に1,2度来て、食事を置いていった。しかし、若くない祖母は食事の用意が限界で、父親との折り合いも悪いことから、すぐに帰って行ったため、家事等の日常生活について祖母から教わることはなく、B氏は模索しながら家事を行っていた。

B『やっぱり個人的に一目合わせてあげたかった(中略)。孫としてはかわいがってくれたけど、そういう冷たい、要はこういう病気を持っていると、偏見というのは親戚からくるんだなということを学んだ。だから、お婆さんがいてくれたことはよかったけど、最終的にそういう仲の悪さが残って、あんまり信頼感がね(ない)』

 また、母親は弟を妊娠した際、祖母から「(母親の)面倒を見る子は一人でいい」と言われている。このことを聞き、B氏は自分が母親の面倒を見るために生まれたと感じ、とてもショックだったと語った。



c 親の症状による被害

 家庭生活だけでなく、悪化した親の症状と繰り返された両親の喧嘩からの被害も語られた。


B『小学生の頃は困ったことばかりだった。何か突然妙なことをやりだした。母親が私の服(ポケット)にマッチを入れて、学校にいる間に出火して大騒ぎになり、先生にひどく怒られた。弟も、(母親に)大切な書類を全部破られて、学校で説明できずに泣いてた』


 母親は入退院を繰り返すが、退院後、本人は服薬することもなく、また誰からも服薬を勧められず、1か月もすると病状が悪化した。

B『子どもの頃、母親が突然何かぶつぶつ言いだし、辞書を破きだして、何かおかしくなると、大概父親と母親がばんばん叩き合って、見ている方も気がきではなかった。(中略)、高校の時は家に入れないこともあったし、お風呂のガスの火をつけて煮出して暴れて、弟と一緒に逃げなくちゃと言って、手を引いて、がーっと逃げて(中略)。とにかく逃げる逃げる。父親がいると(母親の)顔をパンパンて殴って、それから母親が逃げて、近所の家の戸を叩き、ようやく父親が救急車を呼ぶと、病院か何かに通報が入って、(母親を)連れて行ってくれるって感じ』


 このような経験を通して親の症状悪化前の介入の必要性を語った。また成人してからも、母親への怖い気持ちが残り続け、また男性が怒ると委縮して怖いという思いがあり、親から受けた被害によるトラウマになっていた。

 B氏は経験していない人にはわからない体験と話し、他人に家庭のことを話すことはなく、人に話すには過大な勇気が必要だったという。しかしこのようなトラウマに対して、成人してから、ある講演会でトラウマからの回復について聞いた後に、自らも人に体験を話すことによるトラウマの癒しを経験し、現在は精神疾患を患う親を持つ子どもの集いにも参加している。





d 友人関係の制限と弟との支えあい

そのような中で、友達との家の違いに驚き、友達から普通の生活を知るという状況だった。高校卒業後に家を出て寮生活を始めた時には、普通の生活の仕方が分からず、B『こんなことも知らないって、もうこの歳で言われるのも、何だしなと思って、周りに聞けなかった。手探りだった。ほんと恥ずかしくて。』このように、成長過程で家事等を教えられず、普通の生活の仕方が分からないことによる自信のなさについて繰り返し語られた。

B『(子どもの頃に)家事をやっていてもこれでいいよって言ってもらったわけではないから何か自信がないところが残っている。』(承認されないことによる自信のなさ)と語り、生活や人との関わりについて一生続く生活のリハビリと表現した。

小学生時代は友達との関係は悪くなかったという。しかし、家事があるため放課後に1,2時間遊んだら家に帰り、弟と共に洗濯や夕飯づくりを行った。高校時代は母親の病状が少し落ち着き、成長してきた弟の世話も少なくなった。B氏は夕方まで続く授業や部活動にも参加でき、B自身の発達に合わせた活動時間を持てるようになった。またアルバイトで収入を得ることで、必要なものを少しは自分で買えるようになった。B氏は主に小中学生の時期に、子どもとして過ごせる時間を十分に持てず、家事を行い、親の病状にいや応なしに巻き込まれていた。また、家事等の日常生活について祖母から教わることはなく、B氏は模索しながら家事を行っていた。そのような状況の中で、B氏は遊びの時間を切り上げ、家事を担っていた。


B『施設か何かに入っていた弟が戻ってきた頃(B氏が小学校低学年)からしか自分の記憶が始まらない。弟だけが唯一の私の支援者というか、理解者』と語った。また、食事や身の回りの世話をされず、母親の病状悪化に伴う家庭内の混乱の中で、B『弟がかわいそうなので(食事)を作らなきゃと思ってやりだした』、『弟が怖がっているから、こいつだけは何とか守ってやらなきゃって。母親が何をするか分からないから。ともかく弟の手を引いて逃げようと思って、もう夜中でも逃げた』と語った。

e 関心の偏り

B氏が小学生の頃は母親の病状も悪く、父親は家事ができないため、朝食を食べず下校し、給食を食べて栄養をとっていた。夕食は父親が何かを買ってくるか、インスタントラーメンを作っていた。B氏は子どもの頃から身の回りの世話を受けた記憶がなく、幼少期から食事や身の回りの世話をする人が不在であった。近隣に住む祖母は月に1,2度来て、食事を置いていった。また、精神疾患を患う母親は病状が落ち着くと無理に習い事に通わせ、病状の悪化に伴い子どもに関心を持たなくなった。父親は怒るとB氏に手を挙げた。

B『(親は)怒るってことがうまくできない。要は躾の意味で叱るっていうのかな。だから怒られると、委縮してしまってどう答えていいかわからない。今でも男の人に怒られるのが苦手(中略)。根底に人に怒られると委縮するし、何となく自信がないところが残った。それが一番困ること』こうした状況に対して、大人になってから働く中で叱られることを学んでいるという。

B『どっちかの親が上手く親として機能してくれればよかったのだろうけど、両親ともに子どもに関心がなかった。(中略)父親の関心や愛情は母親に注がれていた。子どもはある意味、愛情というよりも、置いとけば、身の回りのことをやってくれるなぐらいの存在だったので愛情の対象ではなかったと思う』と語った。

また、B氏と一緒にお風呂に入ってくれ、「入浴方法がわかったことはよかった」という。

そして、世話をする人の不在と貧困から、成長に合わせた服や下着を買うことができず、体の成長変化に一人で対応できない困りごとと恥ずかしさも語られた。

B『(生理のことを)授業で説明を受けても、一回だけだし、覚えていない。実際にきたらもうびっくりした。下着類をどのように使えばいいかも分からない。先生にも友達にも恥ずかしくて聞けない(中略)、普通の家ではめでたいことなんだろうけど、私にって



や応なしに巻き込まれていた。

家事等の日常生活について祖母から教わることはなく、B氏は模索しながら家事を行っていた。そのような状況の中で、B氏は遊びの時間を切り上げて家事を担っていた。


B『(生理のことを)授業で説明を受けても、一回だけだし、覚えていない。実際にきたらもうびっくりした。下着類をどのように使えばいいかも分からない。先生にも友達にも恥ずかしくて聞けない(中略)、普通の家ではめでたいことなんだろうけど、私にとっては最悪なことだった。ほんとはずかしくて。』



そのような中で、友達との家の違いに驚き、友達から普通の生活を知るという状況だった。高校卒業後に家を出て寮生活を始めた時には、普通の生活の仕方が分からず、B『こんなことも知らないって、もうこの歳で言われるのも、何だしなと思って、周りに聞けなかった。手探りだった。ほんと恥ずかしくて』と語った。


成長過程で家事等を教えられず、普通の生活の仕方が分からないことによる自信のなさについて繰り返し語られた。さらに、B『(子どもの頃に)家事をやっていてもこれでいいよって言ってもらったわけではないから何か自信がないところが残っている。」(承認され



ないことによる自信のなさ)と語り、生活や人との関わりについて一生続く生活のリハビリと表現した。』


g 社会からの疎外感、排斥感

世話をする人の不在と貧困から、成長に合わせた服や下着を買うことができず、体の成長変化に一人で対応できない困りごとと恥ずかしさが語られた。

B『一番ショックだったのは、学校の遠足でおにぎりを持って行かないといけなかったこと。おにぎりの作り方が全く分からないので、白いご飯をきゅっきゅっと丸めて。サランラップが何かわからなかったので、ビニール袋に入れて持って行った。で、学校の先生が気の毒に思って、おにぎりと交換してくれた。そういうのは困ったし、いい思い出じゃないね。だから、今でもかじにっちょっと自信がないところが残る。』、『(生理のことを)授業で説明を受けても、一回だけだし、覚えていない。実際にきたらもうびっくりした。下着類をどのように使えばいいかも分からない。先生にも友達にも恥ずかしくて聞けない(中略)、普通の家ではめでたいことなんだろうけど、私にとっては最悪なことだった。ほんとはずかしくて。』

物の手伝いという属性に対する自尊心を傷つけられた、あるいは仲間から排斥されたと感じたのではないだろうか。

A氏はそれまで友人関係への制限など不満も感じていたが、心のどこかでケア役割を肯定していたと考えられる。しかし、友人たちからの否定的な発言や態度によって肯定感や自尊感情が傷つけられたのではないだろうか。このことでケア役割を担うことに対して否定的な考えを抱き、母親との喧嘩への一因となったと思われる。

そしてA氏は、自身のケア役割を担う経験やそれに伴う母親への反発を、友人や母親を除いた親兄弟のような身の回りにいる他者に話すことができず、胸の内に秘めていた。以前友人が、買い物をしていたA氏に対して否定的な発言や態度だったことも関連すると思われる。このことから、実際にどうであれ、A氏にとって誰かに打ち明けることは、自分や母親を何にさらす行為であったと考えられる。秘密にして打ち明けないでいることで、希薄な友人関係の維持や、話し合いをすることにおいて機能していなかった希薄な家族の現状を維持していたのではないかと考えられる。しかし、自身のケア役割に対する不満を直接母親に伝え、受け止められていたことは、A氏にとって孤立感を和らげていたと考えられる。


ⅳ) メンタルヘルス問題への知識、病状を説明されないことによる困難

A氏が健康に育っていればいるほど、成長に合わせて親に対する反抗は強くなる。もしもこのとき、専門家からA氏に対して母親の病状に関する個別の説明がされていれば、A氏の反抗が和らいだ可能性がある。A氏とA氏の母親の両者が争うことは、お互いを消耗させるだけである。それは、親子関係の悪化だけでなく、最悪の場合として母親の病状の悪化も考えられるのではないだろうか。母親の病状が悪化すれば、親子関係はより複雑になっただろうと考えられる。これは、専門家の説明や介入によって防ぐことができた、とも考えられる。


ⅴ) 他者への自身の普通の家庭ではないという秘密の保持

A氏はそれまで友人関係への制限など不満も感じていたが、心のどこかでケア役割を肯定していた。しかし、友人たちからの否定的な発言や態度によって肯定感や自尊感情が傷つけられたと考えられる。上記のことでケア役割を担うことに対して否定的な考えを抱き、母親との喧嘩につながったと考えられる。また、母親との喧嘩が緊迫してやる場のない思いを抱えていた。思春期から青年期にかけて家族以外の他者とのかかわりがより重要になる。しかし、A氏は友人たちや近しい大人に自身の気持ちや考えを伝えられず、一般的な家庭とは異なるという自己の秘密と不満を抱えたままであった。

ⅵ)  自身の境遇の受容

A氏は自身と同年代の友人とたちとの違いを比較して検討した。その結果、母親に向かって感情をぶつけている。また、大学ではおそらく自分の置かれた環境や役割と似た情報を探していたものと考えられる。青年期前期や青年期後期は自分を探す時期であり、自分とは何かを考える時期である。そして人生の方向性を決めて将来に向かっていく。この時期にかけて自身の境遇や役割について考え抜き、時には喧嘩をし足りない情報は自身で探すことによって自身のアイデンティティを確立させたものと考えられる。これはつまり、自己を確立するために自身の経験を探索する環境が整っていたと考えられる。

⑵ 事例Bについて

Bさんは、精神に障害のある親を持つ子どもの集いの参加者である。この事例においては家族だけでなく、親戚などの周囲の環境との孤立も示された。また、Bさんは母親の精神状態が良好でないときに母親の妄想からくる行動や、母親と父親のケンカに巻き込まれていた。この時の経験から母親に対する恐怖や、男性が怒ると恐怖を感じるようになっていた。

 (武田2010)において子どもが親の被害的な妄想に巻き込まれることが論じられている。事例⑵においてもBさんが親の被害的な妄想に巻き込まれている。 B氏は近隣住民や専門家とかかわりが薄く、援助してもらう他者が不在である。これは、両親に代わる大人、つまり保護してくれる導いてくれる存在がいなかったことを表す。また、自身の経験について話すことができる他者がいないなどの関係の希薄さから、子どもの頃は社会的孤立の状態であった。これは大人と同世代においての孤立である。しかしのちに「精神障害のある親を持つ子どもの会」にて自身の経験を話している。A氏においても、大学2年生でホームヘルプサービスの利用や知人のQ氏やR氏に母親の面倒を見てもらう前は、援助者や経験を話すような他者の存在はなかった。また事例⑵においては、自分と同じ環境にいる他者として弟の存在が挙げられている。Bさんにとって弟の存在は自分の鏡のような存在でもあり、また助けるべき他者として非常に重要な間柄だったと考えられる。

a) 家庭機能、身の回りの世話

 家事についての情報が与えられず、配慮がされなかったことや、女性的な体の成長について配慮が必要なことに対して家族や周囲の人物からの配慮がなかった。このため不完全な形でB氏が自身の力で乗り切るほかなかった。主に生活習慣や体の成長に関する知識は通常、親や親戚などの身近な大人とのかかわり中で身に着けていくが、B氏には身近に相談できるような大人の存在がなかったと考えられる。常識について十分に知ることができなかったこと、不確かな知識で対処し失敗した経験や、友人の家族と自分の家族を比較し、引け目を感じた事で自尊心が傷ついたものと考えられる。また、子ども時代におけるできて当たり前の常識的なことを十分にやりこなすことができなかった経験が、成長して

からも劣等感として残ったと考えられる。また、できて当たり前のことができないということが、疎外感を与えたと考えられる。

b) 日常生活でかかわりのある人々の子どもへの踏み込まない関わり

小中学生の時には積極的にかかわる教員はいなかった。しかし、高校生の時には、家庭の状況を知った上でB氏を褒めてくれたり、ほかの教員に対して働きかけた教員はいた。そしてその教員の行動に対して、感謝の意を示している。親や周囲の大人からの愛情のある視線や愛情を向けられることが少なかったB氏にとって、周囲から愛情を感じるいい経験だったと考えられる。しかし、このような人々に対してもB氏は自身の経験における感情を誰かに打ち明けることができなかったと考えられる。このように、心理的なかかわりがほとんどない、又は表面的な関りだったために誰とも深い、継続した関りは持てなかった。唯一、福祉や医療の専門家である看護師やソーシャルワーカーは声をかけてはいても、訪問支援には至らなかった。おにぎりとは、手で固めるだけでも作ることはできるだろうし、比較的簡単な調理方法だと考えられる。作ることが簡単なおにぎりを作ることができなかったことから、教師は何らかの異変に気付いと思われる。しかし、踏み込んだ対応はされなかった。

おそらく推測すると、近隣住民や教職員以外にB氏と関わる可能性が高いのは親戚だっただろう。実際に、B氏の祖母が月に一度家庭を訪れている。少なくとも家を訪れ、食事を用意することで物理的な関りはあった。しかし、父親との折り合いが悪かったこと、それによってすぐに帰ってしまったことから、B氏と心理的に親密な関係になることはなかったと考えられる。逆に、母から伝え聞いた祖母に発言によって傷ついていた。そのために、そのことに対する祖母の真意を知ることもなかったと考えられる。

c) 親の症状による被害

 B氏の生活は、母親の病状からくる突発的な奇妙な行動に振り回されていた。母親の行動には命の危険に関わるものもあり、その場合は弟と共に、家の外に逃げ出して助けを求めなければならなかった。それは家庭だけにとどまらず、学校へも影響があるほどであった。しかし、学校では母親の病状のことを教員に伝えることはできずただ叱られていた。また、両親の喧嘩を目の当たりにしていた。いつ起こるかわからない危険な出来事や、協力のない教員への対応に苦労していた。このように、自身でコントロールできない、突発的な恐怖を経験していた。それは母親に対しても、父親に対してもトラウマとなっている。上記のような場合、精神障がい者への対応だけでなく、その家族や子どもに対しても何らか対処が必要だと考えられる。

d)  友人関係の制限と弟との支えあい

B氏の友人関係は、時間的制約や、対等でなく否定的な秘密のある関係だったと考えられる。本来、友人関係は対等であることが望ましいが、知っていることが当たり前、普通である事柄について自身ができないことを秘密にしていた。このことから、秘密を隠さなければならないというプレッシャーや、自分は当たり前のことができないというストレスがあったと考えられる。この思考は友人と関わっているときには常に頭の隅に存在したのではないだろうか。本来人は友人関係において、心配ごとや困りごとについて相談しあう。つまり、友達以外の人物に対しては秘密を作る、守ることで自分たちの関係を特別なものにする。そして友情を育んでいく。その一方で、親しい友人に対しても全てを話すわけではない。そうして人は対人関係を維持する。知っていて当たり前のことが聞けないことや、普通の家庭について友達を通じて知るということは、対等な友人関係を阻害する。そして、友人関係は人格の形成にとって欠かせないものである。幼いB氏にとって、家庭での過酷さと友人には秘密を抱えた生活はストレスの多いものだったと考えられる。ただし、弟の世話をして弟から情緒的な反応を得ることで、ストレスを軽減していたと考えられる。つまり、B氏にとって弟は自身と境遇の同じ心を通わせることのできる対象だったと考えられる。そして、家事をしても反応がない両親よりも、おそらくは喜怒哀楽の反応があった弟の存在はB氏にとって特別な他者だったと考えられる。情緒的な関りが持てる対象だったとも考えられる。

e)  関心の偏り

更に両親からB氏が抱いた感情は、B氏は両親ともに子どもに関心がなかったと理解している。そして、父親の関心や愛情母親に向けられていたと語った。親からの自身の存在についての価値も、身の回りの世話をする存在としてみなし、愛情を向ける対象ではないと感じていた。

B氏は身の回りの世話をする人がいない状況にあった。このことは、B氏について、B氏の目線に立つ形では関心が向けられていなかったと考えられる。

 母親が習い事に通わせたのは子どもに対する何等かの関心があったのではないだろうか。しかし、母親の病状の悪化に伴い母親はB氏に対して関心を持たなくなった。このように両親から安定した愛情を向けられず、ケア役割を担うこと以外に自分に対して親の関心が向けられなかったと感じていたと考えられる。つまりB氏は、自身のケア役割が両親にとって必要とされていたと感じているが、B氏自身の存在に対しては無関心だったと考えている。家族以外のかつ親戚とのかかわりであった祖母に対しても、ケア役割を担うことを重視したような発言を聞き、自分の存在意義について自尊感情を損なわれる体験を経験している。このようなB氏に対する両親や祖母の態度も含め、B氏は自尊感情を損ねられたと考えられる。また、親の病状のために混乱した環境下に置かれていたことが推測される。

f)  同年代の友人関係の阻害と秘密の保持

 B氏は家事を担うことで、通常の子どもたちよりも遊ぶ時間が少なく、友達と遊ぶ自由な時間が限られていた。また、友人たちの話からは自身の家庭と普通の家庭との違いを知っていた。B氏は自分の家庭の機能不全を隠していた。これは自分にとって否定的な意味のある秘密を抱えていたということである。周りが知っていて自分が知らないことは自身の家庭の異常さを認識する経験だったと考えられる。そこで社会からの自身の疎外感を抱いたのではないだろうか。また、他者が当たり前に知っていることを知らないまま、誰にも聞けずに問題を未解決のままでいることは相当なストレスだったと考えられる。

g)   社会からの疎外感、排斥感

食事や体の成長に対する服装などの対処に対通常は親子で解決する問題が一人で対処できないことが語られた。そしてそれらへの困りごとと、誰かに尋ねることの恥ずかしさが語られた。これは同年代の友人たちとの違いを感じる体験である。そして、友人から普通の生活を知るという状況だった。高校卒業後の寮生活においても、普通の生活が分からず、周囲になじめない経験が語られた。B氏はこのような経験を通じて、自身に対する自信のなさを語っている。また近隣住民や、教師や看護師といった専門職からも距離を置かれたという認識をしている。そして彼らよりも関係性のある親戚からは、祖母以外に家庭への訪問がなかったことや、祖父母の葬式への母親の参列を拒否されていることから社会的な疎外感を感じている。このようにB氏は自分が普通の人と違いできて当たり前のことが、自身はできないといった違いを通じて疎外感を感じたのではないだろうか。こうした自身の存在に対する否定的な出来事を通じて自尊心を傷つけたのではないだろうか。

2)事例の比較検討

⑴ 事例Bは、本来は親又は親と共同で行うことを子どもだけが行っている。また、母親の病状によって命の危険にさらされていた。更に両親の喧嘩にも巻き込まれている。このように、両親と喧嘩して自身の考えを主張できるような状態ではなかった。それに対し事例A氏は、母親に対してA氏は反抗し、言い争うことができている。つまり家族の中の個人としての立場が確立している。しかし、B氏の場合は十分な関心が向けられず、本来は親が担う家事を独力で担っていた。本来は家事を手伝う場合、親に言われて行う。つまり、親に勧められなければ行わなくてよい。家族の中の親子の役割がはっきりとしている。しかし、この場合は不足している家事を自身で考え、探し出さねばならなかった。家族の中での親子としての各自の役割や立場が判然とせず、また模範となる答えも親から教わることができなかったと考えられる。このような違いが両者のアイデンティティの確立に影響した可能性が考えられる。

 しかしながら、2事例共にケア役割や自身の体験を乗り越えようとしている。事例Aにおいては他者に福祉サービスを頼むことで、他者に援助してもらうことができるようになっている。また、事例Bにおいては同じような体験をした自助グループに参加することで体験を乗り越えようとしている。

⑵ 次に、2つの事例の共通点として、①~⑥を挙げた。また、それ以外⑥に事例⑴ではアイデンティティの確立への関連や事例Bでは安定した愛情が感じられなかった経験があった。

①ケア役割と周囲の人々

A氏は上記のことから、ケア役割を担うA氏やその母親に対して周囲の大人の肯定的な反応があったと考えられる。これはA氏にとって周囲の人々が自身の行動を肯定し、受け入れてくれる経験だったと考えられる。B氏の場合、家庭内の家事を中心的に担わなければならず、家事の情報や行った家事に対して評価もされなかった。また身体の性的な成長についても十分な情報を得られなかった。つまり、相談できるような大人や友人がいなかったと考えられる。そしてこのようなできて当たり前のことができないということに、周囲からの疎外感を感じたのではないだろうか。また、A氏はB氏と比較すると、周囲からの肯定的な反応があったことで、周囲からの疎外感はつまり日常生活において、B氏に積極的に関わる教員は小中学生のときにはいなかったが、少なかったことが考えられる。B氏には高校生になってから関りを持ち、環境を調節してくれる教員が存在した。B氏にとって、自身に愛情をもって関わる人の存在やその経験はよいものだったと考えられる。また、福祉や医療に関わる専門家である看護師やソーシャルワーカーは、声をかけてはいても相談するような深い関係には至らなかった。教員や専門家から積極的な働きはされなかった。また、近隣住民や親戚とも疎遠だった。このように、2つはケア役割を担う理由と役割に対する周囲の反応が異なっている。

②友人関係の制限

A氏は主役を演じたことをきっかけに、友人たちとの間に居場所を見つけることができた。しかし、その後は母親からの友人関係の制限によって友人たちとの関係性が希薄になり、また母親からの精神的な依存をされることになった。その結果、友人たちとは関係の希薄さを感じ、母親からは束縛感を感じていたと考えられる。B氏もまた家事によって友人関係が制限されていた。家庭でも突発的に困難に巻き込まれ、友人関係にも秘密を保持することで緊張が続いたと考えられる。そしてそんな中で、自身と境遇を同じくする弟の存在は大きかったと考えられる。

③友人たちとの差異

成長に応じて、大人ではなく、同年代の友人たちとの価値観が重要になっていく。ケア役割を担うA氏に対して、同じ価値観を共有し、形成するはずの同年代の子どもたちから疎外される経験をしていた。そのことで自尊感情が傷つき、普通とは異なる母親への反発を誰にも打ち明けることができずに抱えていたと考えられる。そして、自身の心の内を他者に語れないことによってまた疎外感を感じたのではないだろうか。またB氏は自身の家庭と友人たちの家庭との差異を知ることによって自身の家庭の普通でなさを感じていたのではないだろうか。また、近隣住民や教師などからも距離を置かれたと新指揮している。また、親戚からは社会的な疎外感を感じている。これらからB氏は疎外感を感じていたと考えられる。A氏の感じた疎外感よりもB氏の感じた疎外感の方が大きかったと考えられる。


④病状の説明のなさと巻き込まれ

A氏は母親の病状を説明されないことによって、A氏は自身の境遇に対する考えが整理できなかった。また、この時期は一般的に反抗期にあたる。このために、親子で混乱と揉め事が起こったと考えられる。それに対し、B氏は母親の病状次第で生活が一変した。ひどい時には学校や近隣住民周囲を巻き込んで大騒ぎとなった。また、両親の喧嘩によっても騒ぎとなっていた。そしてこのことは、成人してからも母親への恐怖や、男性への恐怖として残った。これは母親の病状の違いによる差だと考えられるが、病状の説明がされないことで混乱しただろうことが一致している。

⑤疎外感と自尊感情の傷つき

上記の事件からケア役割に対しての否定的な考えが生まれたと考えられる。そしてそれが母親との確執となり、親子喧嘩となった。友人たちの否定的な反応から、自身がおかしいと非難されることを避け、友人に話すことはできず、また母親にも話すことができなかったと考えられる。B氏もまたケア役割を担うため、友人関係に時間的な制限があった。また本来、友人関係は秘密を共有しあって友情を深くするが、自身の秘密を隠さなければならないといったプレッシャーが常にあったのではないかと考えられる。つまり、ストレスの多い友人関係だったと考えられる。

3)ヤングケアラーに関して

⑴ ケア役割を担う上で、周囲の援助はケアラーたちが日常衣生活を維持するために大変重要である。では、ケアを受ける当事者である精神障がい者は援助を求めることができるだろうか。(阿部2008)によると、「精神障がい者は治癒するものがいる一方で、長期に渡り病気の寛解と悪化を繰り返すものは多くいる。彼らは、病気自体が引き起こす苦痛、例えば、自己を否定するような幻聴や幻覚、妄想に悩まされたりする。また、それらによって外に出られなくなったりするなど、彼らの生活能力を著しく減退させることが多々ある。更に、疾病の悪化や治癒しないのではないかという不安を彼らの多くが抱えているという。また、そうした具体的な症状だけが彼らの生活に影響を及ぼすのではない。また、長期の入院による社会経験の乏しさによる、対人的・対社会的関係性の能力にも拙さが生じる。このように、精神障がい者は精神疾患を抱えることで、他者と社会関係を結び、地域で生活を営むことが容易でなくなる」。

⑵ 一方で、ヤングケアラーの場合における自己援助志向性を考えてみる。佐藤(2013)によれば、大学生における自己援助の志向性は、援助資源利用群、自己解決志向群、専門的援助回避群、友人援助志向群の4つに分類される。そして、援助資源利用群と専門的援助回避群は、自分一人で対処するとした回答は多くなかったが、自己援助を志向する理由から自己援助に対して積極的な捉え方がなされていることが示された。一方で自己解決志向群と友人援助志向群においては、援助不安や相談をしてうまくいかなかった経験があることが推察される志向理由が見られた。そして、消極的な理由によって自己援助が志向されていることが推察された。そして、佐藤(2013)によって、自己援助に対する考え方について、積極的な態度と消極的な態度の両面があることが明らかとなった。また、自分一人で対処しようとする群ほど自己援助に対して消極的に意味づけているという結果から、仕方なく自分で対処している状況が示された。更に本来相談が必要な状況であるが、相談できる人がいない、あるいは相談することに対する否定的な考え方から、誰にも相談できずに自分自身で対処せざるを得ないという可能性が示唆された。以上のことから、ケアラーはだれにも相談できずに、自分自身で対処せざるを得ないという感覚を持っているのではないかと考えられる。つまり、彼らは自分から援助を求める行動に出にくいことが考えられる。

 佐藤(2013)によると、ほかの援助資源を積極的に使用している群は、自己援助に対しても積極的な意味づけをしており、適応的な自己援助の志向のタイプであるという可能性が示唆された。そして佐藤(2013)は以上の結果から、悩みを抱えていながら相談に来ない学生に対するアプローチに対し、いかに相談に来させるか、という方向性と、いかにして学生が自らの問題に対処できるようになるか、という2つの可能性が見出されたとした。このことは、ケアラーについても同じことが言えるのではないだろうか、つまり外部、例えば教師、カウンセラー等の働きかけ、もしくは人権教育による援助志向性の強化の必要性があると考えられる。

⑶ 次に、藤木・山口(2012)の研究によって、対人関係における男女差が指摘された。女性は他者との触れ合いの中で自分に対しての評価をし、他者と良好(積極的)な関係を築いていると認識しているほど、自分に対しての評価も高く、自尊感情を高める傾向にあることが示唆された。それに対して男性は、他者を気遣えることがそのまま自己への肯定的な評価に繋がらない。すなわち、他者を信頼し円滑な交流ができることが自尊感情へ直結するわけではないということを示唆した。このことから、事例は2つとも女性を用いたため女性の友人関係しか把握できなかったと考えられる。

⑷ ケアラーたちは、その役割や家庭の状況から疎外感や、自尊感情を傷つけられやすいと考えられる。遠藤・坂東(2006)の研究では、他者から曖昧さを含む、受容、拒絶に関するフィードバックを受け取ったとき、自尊感情水準によってその解釈がどのように異なるかという研究が行われた。自尊感情の高い人は、他者からの受容を求めるので、他者から曖昧な反応を得た場合、つまり拒絶されているとも受容されているともどちらでも解釈できる可能性がある場合、拒絶の可能性を低く評定することを示唆した。その一方で、自尊感情の低い人は、他者から受容されているにもかかわらず、今以上に拒絶されることを回避したいので、受容情報であっても、拒絶の可能性を高く評定することが示唆された。そして、藤木ら(2012)は遠藤ら(2006)の研究から、自尊感情が低いことは良好な友情関係を築くことに弊害を及ぼす可能性を示唆した。そしてさらに、遠藤ら(2006)によると、自尊感情高群では受容のフィードバックに関して否定的な感情はあまり喚起されなかった。しかし、自尊感情低群においては、受容、拒絶のフィードバック両方に強い否定的感情が喚起された。このことから、自尊感情高群は否定的な感情をあまり経験することなく、もう一度その相手にアプローチしていく一方で、自尊感情低群では否定的感情を強く経験するとともに、再びアプローチする可能性が低くなる可能性が低くなることが示唆された遠藤ら(2006)。

 このことは、他者からのメッセージに解釈の余地がある曖昧な状況の場合、自尊感情低群は、自分の思いと主観的現実がボタンの掛け違えのように、下方に大きくズレないようにするために、あらかじめ情報を拒絶寄りに解釈してしまう可能性が示唆された。そして遠藤ら(2006)はそれぞれの対人方略について、自尊感情高群はフィードバックに応じて再要請する可能性を調整することを示唆した。一方、自尊感情低群はフィードバックとは関係なく再要請する可能性を低く評定することが分かった。

⑸ このことは自身の愛着の型と関連するだろうか。馬場(2015)は青年期における愛着のスタイルを「安定型」、「愛着軽視型」、「とらわれ型」、「恐れ型」の4つに分け、それぞれのスタイルについて、被援助に対する肯定的態度と被援助に対する疑念や抵抗感の2つの被援助志向性を研究した。その結果、被援助に対する疑念や抵抗感が最も低いのは安定型であった。そして、とらわれ型と恐れ型はともに見捨てられ不安が高く、ネガティブな自己感を形成していると考えられる愛着スタイルを持っており、更に他者観がネガティブである「恐れ型」を持つものは、より援助者に対する疑念や抵抗感が高い可能性を示唆した。このことから、自尊感情は他者に助けを求めるだけでなく、友人関係の築き方にも影響すると考えられる。以上のことから、ケアラーたちが、自分から援助を求めにくい状況にあることが考えられる。さらに、(茨木ら2004)の大学生を対象とした研究によると、個人にとってネガティブな秘密を保持するということは、秘密が他者に知られること、また秘密の漏洩後の他者との関係性などの懸念を生じさせ、秘密保持者に強い不安感を与えることが示唆されている。ケアラーたちは友人関係に否定的な秘密を保持しやすいことから友人関係に対して不安感を感じている可能性があるのではないだろうか。

⑹ 不安感は肯定感や自尊感情の反対である。では、自尊感情とはいったいどのようなものなのだろうか。遠藤由美(1999)によると、「最近の多くの認知研究や自己研究は、自己がどのようなものとして経験されるかは個人内の閉じた系の中で進行するのではなく、他者との関係性や相互作用がその人のあり方を決め、またその人の自己理解を方向づける上で極めて重要な役割を果たしていることを示している。そして、このようなことを考え合わせるならば、自尊感情をこれまでのような個人内の個人内過程の産物としてではなく、関係性の観点からとらえ直すことが是非とも必要になってくる」としている。また、「文化によって世界観は異なるが、いずれの文化も”よりよく生きる”、”価値ある”こととは何かについてのメッセージを持っている。その基準が共有される世界において、他者の反応などから自分は価値ある参加者だと思えることが自尊感情なのである。」とも述べている。

諸岡(2016)は、自己肯定感と自己受容について、両者の違いを主体と自己対象の関係の違いとして捉えた。そして、自己肯定感を、比較的『浅い自己肯定感』と比較的『深い自己肯定感』、そしてその中間のレベルの自己肯定感があると考えた諸岡(2016)

諸岡(2016)は比較的浅いレベルの自己肯定感について、表層的なものとし、自己認知のレベルでの自己肯定感とした。そして自尊感情と自己肯定感を同じ意味で利用することを指摘し、自身の見解を示した。諸岡(2016)は、自尊感情self-esteemを自己肯定感の認知的な側面であると捉え、自分の良さを自分で評価し、自分の価値を自分で認識することができることを自尊感情だと推測した。それに対して、自己肯定感は数量的研究では測定することができない、深い自己肯定感(実存的自己肯定感)を含む包括的な概念とした。そんな俯瞰的な視点、自己離脱的、自己超越的な観点をも含んだ、深い自己肯定が可能になったときに生まれてくる感情を深い自己肯定感であるとした。

 次に、自己有能感とは、自分の能力に対する肯定的感情のことを指し、自己肯定感のうちの能力的側面ともいえるだろうとした。更に、自己効力感(self-efficacy)は、自分の行った行為の達成感に基づく、自分はできるという感覚だと述べた。

 つまり、自己肯定感の認知的側面が自尊感情であり、自己肯定感の対人的、対社会的側面が自己有用感であり、自己肯定感の行為達成能力的側面を自己効力感であると述べた。

そして、諸岡(2016)は、「それらの全てを含んで自分の醜いところ、人を恨んだりねたんだりする醜く汚い気持ちの存在もただそのまま、あるがままに認めることができるような実存的な深さまで包括した概念が自己肯定感である」とした。

そして比較的深めの自己肯定感として、視点の転換が起きることによって生じる自己肯定感であるとした。諸岡(2016)は、「深い自己受容とは、自分のいいところも、悪いところも、ただそのまま、あるがままに認めていく、という深い自己肯定感」とし、そこには、善悪という物差しから離れた、自分自身への赦しの感覚が必要になってくる」と述べた。諸岡(2016)によると、「ほんものの自己肯定、何があっても大丈夫という、無条件の、絶対的な自己肯定とは、このように、善悪を超えた次元で初めて成り立ちうるものなのである。そしてこうした深い自己肯定感を育てるためには、日常の人間関係の水準を超えて、自己超越的な視点を持つことが必要になってくる。自分を離れた視点から、自分自身を見つめ返す、という脱同一化の視点が必要になるのである」とした。そして『受容』について、『肯定』と比較した。

諸岡(2016)は、「肯定との1つの明確な相違は、『肯定』は対象の『内容』にかかわる行為であり、『受容』は、対象との『関係の在り方』に関わる行為である」とした。それは自己という対象の内容に関わる認知的な行為である。それに対して一方の『受容』は、「内容というよりも、自己自身との関係そのものの変容に関わる行為である」とした。

更に諸岡(2016)は、「自分の内側にある、肯定するのでもなく、否定するのでもなく自分のさまざまなところについて、少し離れたところから(自己離脱した地点から)それをただ、そのままに眺めているような、そんな姿勢を保つこと。私の中には色んな感情があることを認め、眺めているような姿勢を持つことこそ自己受容(深い自己肯定)であるとしている。そしてそこから翻って考えるならば、『自己受容』とは、少し離れたところから、『自己という場』に存在しているもの、漂っているものであれば、そこにあるすべてのものに、等しく意識を向けていく姿勢。そこで起きているすべてのことに、ただそのまま、意識を向けていく姿勢のことである」とした。諸岡(2016)によって、自己に対する肯定的な感覚である、自己肯定感、自尊感情、自己効力感、自己有用感、自己有能感はいずれも1つの多元的な軸で想定することが可能であると示唆されている。本論で既に述べたように、自尊感情や自己肯定感は人の行動や対人関係と相互的な関係があると考えられる。

 以上のことから、スティグマにより、精神障がい者である親も、ケアをする立場の子どもの両者とも、援助してくれるような他者と関係性を築くことに難しさがあると考えられる。

女性のヤングケアラーの対人関係の特徴は以下のとおりである。

友人関係に関係なく、人を信頼していれば自尊感情は高まること、そして友人関係の男女差がある。更に、遠藤・坂東の研究から、自尊感情の水準によって、受容と拒絶に対しての反応の違いが示された。これは自尊心が低い場合、受容されている場合でも今以上に拒絶されることを回避するために拒絶の可能性を高く評価した。さらに、自尊感情低群は相手の反応を受けて否定的感情を強く経験し、再度アプローチする可能性が低くなることが示唆された。

 愛着の型と被援助の関連について研究した馬場は、特定の型が援助者に対する疑念や抵抗感が高い可能性を示唆した。

 更に、ケアラーたちは彼らにとって否定的な秘密を抱えやすいと考えられる。そして否定的な秘密を持つものは、他者との関係性に葛藤を生じやすい。

そして最後に、事例の比較検討⑴で述べたように、2事例共に体験を乗り越えたか、乗り越えようとしている。このことには、自己肯定感が関わっていると考えられる。自己肯定感や自尊感情が人の行動や対人関係と相互にかかわりがあることについて本論で述べた。また、深めの自己肯定感を得るためには、視点の転換が重要なことも述べた。2つの事例は、助けを求められなかった、またはかかわりを取れなかった幼少期とは変わって、自分から援助や自助グループへの参加によってかかわりが持てるようになっている。つまり、視点の転換によって自己肯定感が育ってきていると考えられる。

 以上に述べたように、ヤングケアラ―の対人関係に注目すると、被援助志向性、対人信頼感、自尊感情の高低、秘密を保持すること、愛着の型などとかかわりがあることが分かった。これらによって、ヤングケアラーたちは表層的な人間関係を構築しやすく、また何かをするときに困難にぶち当たると諦めやすい可能性が考えられる。


第6章 まとめと今後の課題

 対人関係と自尊感情、自己肯定感に注目して、病態の異なる2人の女性ヤングケアラーの経験を、各事例内や、事例2つを比較し、ケアラーに関して共通するだろうことの3つの視点から考察した。その結果、友人や社会から少なからず疎外感を受けていることが分かった。そしてアイデンティティの確立や、対人関係や被援助の行動に関連することが示唆された。ただし、対人関係については先行研究において男女差が示唆されており、女性だけを考察するのでは不十分である。また、病態または症状における違いがあるだろうと推測される。更に事例Bは虐待の可能性があるが、虐待事例とは別に検討する必要がある。そして用いた事例は他分野のもので、臨床心理学の分野での取り扱いではない。このため、今後臨床心理学領域において個別の事例検討をする必要性があると考える。現代社会において、家庭の問題は家庭で対処するという考えが根強く残っている。しかし、家庭の機能を弱者である子供たちだけが担うことは困難である。今後、臨床心理学領域において、ヤングケアラーの心のケアや、家族療法を行う必要があると思われる。


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―不安障害の親をケアする青年のライフストーリー―

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S,Becker. (2002) .‘Young cares’, in M, Davies (ed):The Blackwell encyclopedia of work, Oxford:Blackwell, P.378

佐藤純(2013).茨城県立医療大学紀要 第18巻 Volume 18 p33~39

大学生が自己援助を志向する理由の検討

柴崎智恵子(2005).人間福祉研究 第8 号2005 (平成17)年度

家族ケアを担う児童の生活に関する基礎的研究

――イギリスの“ Young  Carers” 調査報告書を中心に――

鈴木素子・寺嵜正治・金光義弘(1998).川崎医療福祉学会 Vol.8 No.1 p55~64 

青年期における友人関係期待と、現実の友人関係に関する研究

澁谷智子(2012).理論と動態 (5), 2-23, 社会理論・動態研究所子どもがケアを担うとき : ヤングケアラーになった人/ならなかった人の語りと理論的考察

武田弘子(2010)学校臨床心理学研究 第8号 p103-123

親の精神疾患と子どもの問題との関連及び学校における支援についての研究

田野中恭子・土田幸子・遠藤淑美(2015).ドイツにおける精神に障害のある親をもつ子どもへの支援 ―CHIMPS に焦点をあてて
佛教大学保健医療技術学部論集 第9号

田野中恭子・遠藤 淑美・永井 香織・芝山 江美子(2016) 佛教大学保健医療技術学部論集 第10号  統合失調症を患う母親と暮らした娘の経験

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