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#1 上信電気鉄道

1897年(明治30年)、中山道姫街道(下仁田道)に沿う軽便鉄道として高崎-下仁田間を開業した上野鉄道は、1921年(大正10年)「上信電気鉄道」に改称し、官鉄と連絡運輸を開始。その後、合併が頓挫したことの補償として高崎水力電気から室田発電所を譲渡されると、官有鉄道への直通と高速化を企図し1924年(大正13年)に全線電化と改軌が完了ました。

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ところで、「上信電気鉄道」の名称の由来ですが、巷には次のような話が流布しています。

上野鉄道は全線電化と、線路を官営鉄道と同じ軌間1067mmへの変更を計画。信州への延伸をめざした。このときに会社名を上信電気鉄道に変更した。しかしこの信州乗入れ計画は実現しなかった。(中略)では、上信電気鉄道は信州のどこに向かうつもりだったのだろう? 『改訂新版 データブック日本の私鉄』によると、長野県佐久市、現在のJR小海線羽黒下駅をめざしていたという。

Wikipediaにも同じような記述があり、ともに出典は『データブック日本の私鉄』となっています。少し怪しい。

上野鉄道の取締役の一人に岡部栄信(1886-1965)という人物がいました。彼は1920年(大正9年)に取締役に就任しておりますが、折しも官有鉄道との連絡運輸が始まり、”上信”に改称する前年。彼はこのように述懐しています。

高崎水電が東電と合併して 高崎の人達は金の洪水でこれを如何なる方面に振り向くべきかといふ絶好のチャンスが来た。(中略)北甘百年の大計は 狭軌を広軌に改造することだ(岡部保信「岡部栄信の思想と行動」『地域政策研究』第7巻第4号 2005年3月)

連絡運輸開始当時、上野鉄道は非電化であり、また官有鉄道高崎線と軌間が異なっていたため貨車の直通ができず、大変に非効率であったといいます。まずは改軌が大優先。信州延伸の話は、”上信”改称前年ではあるものの、出てきていないようです。

さらにいえば、下仁田から先の敷設免許を取得したのは1927年(昭和2年)。改称からずいぶん経っていますね。富岡しるくさんのイラストにも載せましたが、実際の敷設免許というのは下記の通りです。

鉄道種別 軌間   線路両端起点終点     延長哩敷   建設費
電気   三呎六吋 自群馬県北甘楽郡下仁田町 七哩十一鎖  金百万円     
          至同県同郡磐戸村
          自同県同郡青倉村
          至同県同郡磐戸村

なんと長野県まで到達していません。”青倉”や”磐戸”という地名は、群馬県南牧村に見つけることが出来ます。南牧村活性化センターのあたりが磐戸で、東に山を越えたあたりが青倉。

この付近には「中小坂鉄山」という鉱山がありました。江戸期の安政ニ年には当地の鉄が那珂湊の水戸藩反射炉に運ばれた記録も残っています。1878年(明治11年)官営へ移行。また”青倉”山からは石灰が産出されていたようです。

郡村誌中小坂村の中では鉄山について6つの鉱を持ち,200名が働き,この製鉄所設備で年間鉄三拾七万二千貫目を生産していたとある.(中略)西洋製鉄では高炉を使い鉄鉱石(ここでは磁鉄鉱)を高温で熱し溶解させる.それに必要なものは還元剤となる石灰石と熱源となる石炭(コークス)である.中小坂鉄山ではコークスの代わりに木炭が使われた.(中略)石灰については同じく近隣の青倉村に大きな石灰山があり,(中略)還元剤の石灰は周辺で調達が可能だったことが推測される.(大河原順次郎・原田喬『公文書からみる中小坂鉄山についての一考察』下仁田町自然史館研究報告第5号 2020年3月)

中小坂鉄山の経営者には、上野鉄道初代社長の小沢武雄氏、2代目社長の佐藤量平氏といった幹部も名を連ねていました。佐藤氏は磐戸村村長も歴任しています。上野鉄道線を活用した鉱山輸送を目論んでいた可能性…、ただし、本鉄山は1918年(大正7年)に一旦操業停止しており、免許取得(1927年)との年代が合わない。

上信連絡については、上信電鉄の路線バスがその一翼を担っていた、という話も有名です。実際に下仁田駅-中込間の系統も存在しており、上信電鉄の手のみで長野県に行くこともできました。

「上信電鉄」の社名は、上州と信州を結ぶ構想のもとに名づけられ、 1942 年に下仁田-中込間の路線バスが運転されたことでこれが実現したが、1970 年4月、東信地域に路線をもつ千曲自動車(現・千曲バス)に長野県側の路線が譲渡された。(石関正典「上毛電気鉄道と上信電鉄が経営した路線バスの展開に関する研究」高崎経済大学)

上信間は初めからバスで連絡する構想だったのでしょうか。ちなみに「信州(中込)側にターミナル用地が確保されていた」なんて話もあるようですが、これは1970年に千曲交通に譲渡された中込営業所のことで、現在の千曲バスです。ターミナルじゃありません。そもそも長野側の起点は羽黒下という話だったはずでは…。

というか、1942年-43年と55年-70年にかけて上信電鉄のバスが中込まで運行されていたことや、山荘あらふねをはじめ佐久地方での観光開発に積極的だったことは、この際その通りだしもういいのですが、「余地峠を越えて佐久鉄道羽黒下までの延伸計画があり敷設免許も取得していた」という話はどこから出てきたんでしょう。前述の通り、敷設免許状は群馬県から一歩も出ておりませんし、なんならUターンして青倉地域が終点です。(イラストの図参照)

これについては、佐久地方の自治体による鉄道誘致合戦があったという記事を見かけました。

よく、上信電鉄は長野県進出を目指していたという話がありますが、あれは佐久平の各町村が、交通の要衝となることを狙ってそれぞれに誘致していたのだそうで、接続点がどこになるかは誘致合戦になったせいでいろいろな案があったのですね。羽黒下という話を見たことがありますが、こちらは秩父から十石峠を越えてくるという案だったそうで、実は武蔵野鉄道(現西武池袋線)の延伸案なのだそうです。

ともあれ、上信電鉄に信州延伸の計画(構想)があったことはおそらく間違いないでしょう。ただし、本気で鉄路で繋ごうとしていたかどうかについては、少々疑問が残ります。

ところで、上信電気鉄道が電化開業を果たしたきっかけは、高崎水力電気との合併計画の頓挫によるものでした。電力側から契約不履行の補償として室田発電所(1903・西群馬郡室田村)を譲渡され、これを元手に全線改軌・電化しています。そもそも両者の合併がうまくいかなかったのは、同じく高崎水電を合併しようとしていた東京電燈が、経営難である上野鉄道との合併に難色を示したからでした。

高崎水力電気の取締役であり、高崎―下仁田間を営業していた上野鉄道の社長に就任した山田昌吉は、経営難に苦しむ上野鉄道の抜本的な改革を図ろうと、その電化に向け高崎水力電気との合併に活路を見出そうとしました。ところが、高崎水力電気と東京電燈㈱との間に合併交渉が進んでおり、業績の不安定な上野鉄道を東京電燈は引き受けようとしませんでした。事態の収拾を図った山田は、臨時株主総会を開いて上野鉄道の合併契約を解消し、200万円の増資と社名を上信電気鉄道㈱と改めました。

また上野鉄道は以前、借金のため一度身売りされかけたこともありました。改称前はかなり経営に苦しんでいたことがうかがえます。

大正2年(1913)、6万円の借金のため、東京の安田銀行に経営を委ねなければならない状況にあった上野鉄道に対し、茂木銀行高崎支店支配役だった山田は「地元の鉄道事業を、わずかな金額で中央資本に売り渡すべきでない」と主張、茂木銀行から6万円を融資して窮状を救いました。これを機に、山田は上野鉄道の監査役に迎えられ、経営に力を尽くすことになります。上野鉄道の窮地はなおも続き経営は逼迫しますが、のちに高崎商工会議所会頭、上州銀行副頭取などを兼任し、高崎実業界の重鎮として多くの業績を残した山田の辣腕によって、幾多の危機を乗り越えていきます。

戦前期の私設鉄道会社には、壮大な構想を打ち上げて資金調達を図るという手法がありましたが、果たして…。

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