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気を遣う、のやり方について

先日、人から言われたことがある。

「人に気を遣いすぎると、周りにもそれが伝染して周りからも気を遣われることになりますよ。ありがとう、ありがとうってあなたはもっと甘えていいんだからね。」

と。、、どきっとした。

何人かで、とあるイベントに向けてグループチャットで話し合いを進めていた中で、きっとあまりにもわたしからの発言から溢れ出ていたものがあって。同じグループ入っていた方がわたしに言ってくださったこと。

わたしは、気を遣うことが良かれと思っていたところがある。が故に、自分が気を遣っている部分に対してきっと周りにも求めてしまっていたことがあったと同時に気づいた。それって、相手へも自分へも気遣いや、何かの概念を強要していることになりかねない。自分への縛りと、自由な選択をも奪ってしまうことにもなりかねない。、、重い。ずっしりと、重い。

なぜ気を遣うのか。
人の目が気になるが故に、自分が周りに気を遣うことで人からの視線を紛らわす。そうしていた方が、ある意味楽なのだ。気を遣うことで「優しいひと。いい人。」になって、「いい人」と思われたいのだ。
でもそこには自分の意見、主張、わたしらしさがなく、薄らいでしまう。
「ほんとうの」私という人を、周りの人に知ってもらえない。改めて自分ってそういう風に振舞っているなと感じる。
「ほんとうの私」を、自分自身でも知ってあげれないまま時間や、日常が進んでいくとも言える。

まずは、1番私のそばにいる私自身が、私のことを知ってあげたいのに。

もっと、楽しませてあげたいのに。

もっと、緩やかに過ごしたいのに。

もっと、遊ぶように暮らしたいのに。


自分にさせてあげたいことがこんなにあるのに。
どこかのタイミングで良かれと思ってやってきた「自分をも重くさせる、周りや自分への過度な気遣い」が、こんなにも過ごしていく日常に蓋をしてしまっていたんだと気付かされる出来事だった。


誰かと何かを進めるとき、そして自分自身とこれからの時間を過ごしていくとき、きっと気遣いは必要だ。
でもその「気遣い」の種類を分けてあげないと、心地よくないモノを生んでしまう気がする。


人といること、繋がりを感じることを今以上に好きになりたいし、そこから新たな出会いが生まれていくことも楽しんでいきたい。


相手に合わせることや、気を遣うことも、自分の中でやろうと思うことを選んでいきながら、自分の想いは大事にしてあげたい。
自分なりの「相手に合わせること」「気を遣うこと」が、相手にとって心地いいとは限らないから。それは、自分の指標でしかないから。


自分がいいと思うことを生み出したのなら、もう少し踏み出して自分の想いをくみ取っていこう。


自分の好きを知る。自分のやりたいを知る。自分の想いを知る。
、、ことにきっと近づいていけるから。


ありがとう、と受け取ることから始まる解放への道がまた開いていく。


教えてもらえることってホントにたくさんある、と改めて感じる。
ありがとう、ありがとう。軌道修正しながら少しづつだな。





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