生きる選択

午前11時26分。本を読んでいてうとうとしてしまった。目が覚めると見慣れない昼間の景色が窓から飛び込んでくる。ああ、今日は会社を休んだんだっけ。昨日は手術だったんだっけ。
抗がん剤治療を受けていた日々から一年経った。朝起きて会社に行ったら見えない昼間の風景を無機質な心で眺める。日中の光はこんなだったな。どうということもない。ありふれた一日の一片の時間。

昨年は乳がんを患い、ステージ3Cと診断されて、生きるか、死ぬかの瀬戸際にいる気分だった。生きることを選択することは難しい事ではなかった。医療先進国のアメリカにいて、10歳の娘がいて、夫と自転車操業の会社がある。私が生きる選択をしなくても周りが選択してくれた。抗がん剤治療で髪の毛は抜け落ち激しい吐き気、めまい、痺れ。肝機能に気を配り、ちょっとした出血すら大事件。「頑張って!」「大丈夫!」「無理しないで!」3流ドラマの主人公に周りが仕立ててくれて、悲劇のヒロインっぷりをベットの上で演じている自分がいた。抗がん剤治療中、コロナを患い、肺炎にもなり、帯状疱疹にもなった。そんなことを言うと、周りは同情し、優しいテキスト、メッセージ、ごはんなんかを沢山くれた。

渡米して起業して6年。歯を食いしばって会社を経営してきて、文化の違うアメリカで友達なんか、できなかった。10歳の娘の学校のイベントにも行けず、ママ友なんか、できなかった。できたのは白人への敵対心。有色人種への嫌悪感、西洋文化への反骨精神と「だからアメリカって嫌い」の口癖。会社でのシステム上のトラブル、機械のトラブル、スタッフのトラブル、刺繍の技術のトラブルがあっても、一人でなんとかするしかなかった。夫は顧客の事で精一杯だったから、自分の持ち場は自分ひとりでふんばるしかなかった。システムトラブルでAWSに問い合わせても、プロバイダーに問い合わせても、アプリケーションの提供先に問い合わせても、サポート先の電話に出てくれた人の技術力で命運が分かれる。人手不足が蔓延しているアメリカ企業に求めるものはなく、私の運任せだった。ミシンが壊れても、自分で治すしかなかった。誰も当てにできず、裏切られ、非難ばかりしてくる顧客と怠惰な労働者。自分を嫌いになり、周りを嫌いになり、パートナーも嫌いになっていった。

いつも孤独で寂しくて、苦しくて、眠れない日がほとんどで、誰もあてにせず、手探りで一日、一時間、一分という一片一片を重ねていった。そして6年分がたまり、薄紙のようにペラペラでスケスケだった時間は、少しずつ自信と経験という厚みを増して、少しずつ穏やかな日が増えてきたと思った矢先だった。癌になったのは。渡米して孤独だった私が、唯一、しがみついて積み重ねてきたものが崩れ落ちてゆくのが見えた。

 それなのに、病気になると、どこからかいるはずのない色んな知人が湧いてきて、脂っぽい西洋料理を作ってきてくれたり、手術の前には薄っぺらな思いやりのテキストをくれたり、娘を預かると言ってくれる。友達だと思ったこともない人達が、突然友達として出演し、脇役をかって出てくれて、私を主演とした即席の友情ドラマが始まった。今思うとぞわぞわする薄っぺらなセリフは嘘でもうれしかった。

 抗がん剤治療が終わり、3流ドラマはクランクアップ。役者は解散となり、私も通常の仕事に少しずつ戻っていった。そして相変わらずの孤独な外国での会社経営の人生。それでも、ベットに横になって吐いていた毎日と比べると、働けるということ、娘のためにお弁当を作れるということに感謝する毎日が続き、健康という幸せをかみしめる毎日が続いた。抗がん剤治療の副作用の手足の痺れは続き、手術で転移していたリンパ線を取り除いた副作用であるリンパ腫で右手が腫れて醜くなり、今度は放射線治療の副作用で肺炎が長引き、ステロイド剤を大量にのんだ副作用で顔が腫れて、醜くなった。肺機能も2年前の検査と比べて三分の一ほどに小さくなった。そして、今回の手術。私の癌の5年生存率は65%だった。その確率を少しでも高くするべく、乳がんの原因であるエストロゲンの生成先である卵巣を除去。さらには子宮がんのリスクもなくすべく子宮除去の手術だった。「ちょっとした手術だから大したことない」の医師の言葉に腹が立った。今までの癌治療で”ちょっとしたこと”や”大した事じゃないこと”が今まであっただろうか。それでも、生きて娘のそばにいるために、夫が会社経営で困らないために提案された手術を選んだ。自分の為ではなく、守るべき人のために。「ちょっとした手術だから大したことないし。」都合の良い時だけ、医師の言葉にすがった。多分、癌治療に関して、私が初めて選択したことだった。でも、生きる選択は当たり前のように処理された。

アメリカでは手術は日帰りのことが多い。今回も日帰りだった。たくさんベッドがあり、カーテンで仕切られている手術控え室の大部屋に通され、そこで血圧を計ったり、先生と面会したり、術前のかるい麻酔をされる。手術後もそこに通されて、経過観察をされ、帰宅できると判断されると帰路につく。私の場合も同じように、夫に付き添われて大部屋に通され、手術をし、また大部屋に戻されて夫を呼ぶかと聞かれた。呼んでほしくなかった。アメリカで唯一の頼れる人と会いたくなかった。彼のために生きる選択をしたのに。彼のせいで私は生きなくてはいけなくなったという息苦しさがべっとりと私にくっついてきた。

今回の手術を終えて、真っ先に考えたのは、これで私の選択肢が一つ減ったという事だった。これで多分、癌で死ぬことはない。これで、アメリカで年老いて死ぬまで生きていかなくてはならない。これで、死ぬまでここで孤独と闘わなくてはいけない。癌治療で患った副作用の数々を患いながら、生きていかなくてはならない。そして、私がいない自分の将来を不安に思い、できる限りの治療をさせて、妻は「生きて、今まで通りに仕事をしていればよい」と思っている夫のサポートをして生きていかなければいけない。ほら、手術前に私のそばにいたって、自分の心配とメールチェックを怠らなかったあなたの片足に戻らなくてはならないんだよね。

癌治療の一番の花形治療は抗がん剤治療だと思う。派手な副作用、髪の毛も眉毛も抜け落ち、外見的にも同情される。治療が終わり、髪毛が生え始めて通常の生活ができると、周りは治ったんだと安心して、ファンクラブも解散する。でも、治療はまだ終わってはいない。転移の不安や副作用、それにまだ手術や放射線治療もある。地味な副作用、地味な症状が断続的続き、それで精神的に疲弊する。女というアイデンティティの象徴だった両胸と子宮を失い、転移するかもという逃げ場(死んじゃったら終わりだしという言い訳)を失い、またアメリカで孤独に生きていかなくてはいけない。そして今度は地味な副作用とともに。手足の痺れ、右手のむくみ、少し体を動かすとでる激しい息切れ。ホルモンがなくなってでてくるホットフラッシュ等々。半年に一度の骨密度を上げる注射も数日間の脚の痛みも考えるとブルーになる。これから一生抱える身体の不調に息が苦しくなる。頭を掻きむしって叫びたくなる衝動に駆られる。私に逃げ場はないのだ。「もう、子供も産んだし、おっぱいも子宮もいらないじゃない。」という知人の言葉とともに、私の大半の自分自身を捨て去って、生きていくしか選択肢はない。そう、私が病気を通して初めてした生きる選択は当然の選択なのだ。

今回の手術の前に、数々の薬の副作用に手いっぱいになって薬も飲みたくないし、手術もしたくないと夫に言ったことがあった。それは間接的には死の選択ということになるのだけれど、そんな重い気持ちではなく、ただ、疲れたから言ってみただけだった。でも、返ってきた言葉は、「それは自殺ってことだよね。そんなのは許さない。自分勝手にそんなこと言うのは絶対に許さない」と口をこじ開けて、薬を飲まされたことがあった。

夫の立場から見ると、そうなんだと思う。一緒に戦ってきて、今更それはないでしょうという気持ちもわかる。癌に限らず、夫婦の一方が死ぬかもしれない病気にかかった場合、当事者は死んじゃえば終わり。でも、相方は死ぬまで苦しむのだから。言ってみれば私は「死に逃げ」だ。

人生は選択の連続だ。毎日の食事を選び、タイミングを選び、学校を選び、勉強するか遊ぶかを選び、結婚では相手を選ぶ。すべての人生は選択の連続から成っている。一つひとつが良い選択か悪い選択かというのは後になってみないとわからない。それなのに、どうして死の選択は絶対的に悪いことだと常識的に刷り込みをされているのだろうか。私よりもっとつらい副作用と向き合って生きている人はたくさんいる。生きていたいのに不毛な死を遂げている人も沢山いる。だから頑張らないといけないのか。
人と比べたって、比べなくたって、
辛いものはつらい。死にたいときだったある。人生をリセットしたくなるときだってあるし、どんなに子供を愛していたって、もう、痛みに、醜さに存在すら消してしまいたいときだってあるのだ。死に逃げしたい時だって、ある。

どうしてそれを口にするのも許されない現状がある?
無条件に死を体中で全否定できる人がいる?
私だけではないはずだ。たまに現状につかれて、死んでしまいたいと思う人は。それをまるまると包んでくれる、休憩場所が欲しい。

生きることに疲れてしまっている人、私だけではないはずだ。
死にたいと思う自分がいるのを認識している人、私だけではないはずだ。
そして少し休めたら、一緒に泣いてくれる誰かがいたら、また立ち上がって頑張れる自分もすぐ隣にいることも。

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