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TEMX-C1051

 2014年5月に大切な出会いがあった。Tajima 刺繍ミシンTEMX-C1051。
ずいぶん昔の気もするし、つい最近のことのような気がする。東京江東区で子育てしていた専業主婦が工業用の刺繍機を買った。

 当時、娘は3歳。私は子育てを大いに楽しんでいた。娘の習い事やママ友との井戸端会議、幼稚園のボランティア、そして娘の洋服作り。今振り返るとあの頃の私は専業主婦で母という立場を謳歌していた。出産を機に狂ったようにミシンを踏み続けて作ったこども服は数えきれない。文化服装学院の通信教育で洋服のパターンを学んだら好きなスタイルの洋服を自由に作れるようになって、更にオリジナリティを出したくなって、自分の刺繍をデザインしたくなった。しかも、できるだけ時間をかけずに。

購入したのはTajimaの単頭刺繍機TFMX。15色の糸をセットしてデータをUSBから読み込めば、一気に洋服に刺繍してくれる。それにスパンコールを縫えるパーツも追加した。総重量約90キロ。ちょっと大きな男性と同じ存在感だ。江東区のマンションで夜な夜な刺繍と刺繍データの作成に明け暮れた。

 機械で一気に縫う…といっても布の種類や使う針の番数、糸や糸調子のバランスで仕上がりが違ってくる。さらには刺繍のデータ作成時に設定する糸密度や縫い方向、ひと針の長さ等の限りないパラメータによって仕上がりはかなり違う。様々な試行錯誤を繰り返し、ミシンとデザインにあった私好みのパラメータを見つけ出し、データを作っていく。デザインを刺繍する順番に合わせてステッチをのせ、糸方向や糸切、玉止めのタイミングをプログラミングしていく。そして刺繍機で選んだ布地に最適な糸調子で好きな色の糸をのせていく。機械の調子が悪くなるとギアの調整、交換も必要になってくる。それは実験であり、ITプログラミングであり、多少大げさだけれど、古典物理で機械工である。
 物理学で大学院を卒業して外資系証券会社のITで働いていた時の友人が、専業主婦で洋服づくりに熱中している私をみると目を丸くして、一方、ママ友がPCで刺繍をプログラムし、家庭では見慣れない機械を使っている私をみるとと、これまた目を丸くする。
 このミシンを手に入れた最初の2年間は機械の調子も、沢山のパラメータの調整も、データ作成も、もちろん機械の操作や修理もうまくできず、悩んだり、泣いたり、怒ったりしながら学んでいった。そばについて辛抱強く導いてくれた横山特殊ミシンの谷さんと人見さんには今も頭が上がらない。

そんな毎日を一年ほど続けたら、周りに私の作品を気に入ってくれる方がちょっとずつ増えて、刺繍ミシンを使うのが日常になっていた。コツを掴み、ミシンの操作やデータ作成が楽しくなっていく私の隣で当時、証券会社でトレーダーをしていた夫は上司や同僚との確執、仕事の行き詰まりやプレッシャーを感じていたが、私は別段気にすることなく、ただ、自分の一日を子育てに趣味にとめいっぱい楽しんでいた。

ところが。
その夫がアメリカに帰りたいと言い出したのだ。

 夫はアメリカ人。コロラドの大自然で生まれ、のびのびと育ってきた彼はやっぱり狭小マンションに住み、雑踏に紛れての通勤と大自然とは程遠いこの東京の町を少し窮屈に感じ始めたようだった。ところが、コロラドに帰りたいと言っても、彼の今のポジションでそのまま転職できるような職種はコロラドには、ない。そして、私にその話を切り出す前にすでに、転職リサーチをしていた。

夫「ちひろ、最近、刺繍にはまってんじゃん。」
私「そうだねー。引っ越ししたら、ママ友と別れるのやだなー。でも、むこうでもママ友できるかな。」
夫「んー、今まで僕が働いてたけど、今度は二人で会社興すってのはどう?」
私「いいかも。でもさー、なんの会社作るの?今までの証券会社の知識生かしたコンサルとか?ディトレーダーとか?IT起業とか?私は経理やるよ、こそだてしながら。」
夫「あ、コロラド州デンバーで刺繍屋さんが売りにでてるから、そこ買って、刺繍屋さんになろうよ。」
私「ん?言っている意味がよくわかんない。あんた刺繍なんて興味ないじゃん。」
夫「これから興味をだすよ。」
私「ん?言っている意味がやっぱりよくわかんない。」

2015年春にした会話だ。数々のリサーチを経て(ところが、脳というのは、一度買収を決めたら、バランスシートの数字からも損益計算書の数字からも、信号を読み込まない。もしくは、良い方向にしか判断できなくなる。今思えば、ここで踏みとどまらなければいけなかったと思っても、後悔あとに立たず、だ。)夏にはあれよあれよと引っ越しが決まり、2015年10月にこのTEMXと一緒にアメリカの地に立っていた。

今思えば、このミシンとの出会いが私の一生を左右するほどの衝撃的な出会いだった。

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