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母子家庭&貧困 それでもこころは貧乏じゃなかった 6

夜明け

高校時代の友人が、子供服のデザイナーをしていたので、彼女の紹介で有名ベビー服メーカーの下請けに入社させてもらった。住まいも、まずは社員寮に入り、経済的基盤ができたら部屋を借りることにした。


仕事は、ベビー服のデザインと、テキスタイル用の原画を書くこと。   自分の息子を思い出しながら描くベビー服のデザイン画はその時の室長に好評で、子供を持たない若い女子ばかりの企画室で唯一、子育てに訴える企画ができると喜ばれた。

やがて、フランスの高級ブランドとのコラボで新しいベビー服ブランドを立ち上げる事になり、私はフランスチームが提供してくるテキスタイルのアイディア画像を、生地全体にプリントする版作りのための原画に書き起こすという仕事に抜擢された。給料は安かったけれど、仕事はやりがいがあり、何よりも、自分の意志で時間やお金の使い方を選択できる自由は格別だった。

こんな幸せがあるなんて!

手元にいない息子の成長を想像し、寂しい気持ちになるものの、後ろを見てはいられないから、いつか会えるその日まで、自分がやるべき事がたくさんあった。

自社製品で気に入るものがあれば、着せる事は叶わなくても購入して時々眺めたりしていた。

ある日、仕事中情報集めのために見ていた子供雑誌のコラムで、とても興味深い記事を見つける。

大学教授が書いた躾についての考察。

『躾とは、自分が理想とする大人像に、親自身が近づく努力を見せることであって、子供に対して何かを矯正する行為ではない』

油断すると空虚になりそうな心にズンと響いた。

あぁ、自分が理想に描く人間になれるように頑張ろう。誰かの痛みをちゃんと気づけて、自分の意志の力で切り開く強さを持ち、恨みではなく哀れみで対応できる柔軟な大人になれるように。

そう強く思った。

きれいごとなんかではなく、その頃の私は、人への失望や怨恨に、吐き気がするほど疲れ切ってしまっていたのだ。

家を出て、仕事に没頭するようになってから2年くらいの年月がたっていた。

そんなある日、突然思いがけない連絡が入った。義母の姉からだった。

携帯電話もない時代だから、多分手紙だったと思う。

『〇〇ちゃん(義母の名)をようやく説き伏せたから。小さい子供はお母さんと一緒にいるのが一番だってわからせたから、一度話し合いの場を設けましょう。迎えに来てあげて。』

突然の閃光。心臓が止まりそうなほど嬉しかった。

私の第二の人生の夜明けだった。


【あとがき】
もしかすると、最初から子供と一緒に家を出ていたら、生活の苦しさと重さで押しつぶされてしまったかもしれない。虐待やネグレクトにならなかった補償はどこにもない。可能性はゼロに近くても、100パーセントならないと保証できるなんてきっとないと思う。

最初に、身軽になって自分と向き合う時間を持つことができたのには大きな意味があったのだと、あの時の私には必要な時間だったのだと、今だから理解できます。

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