短編 『 紅 』
(約1,500字)
遠くに羊雲が広がっていた。
朝露が葉っぱから滴り落ちる先にはまだ、受け皿に空の青がくっきりと映っていた。
ジンちゃんの喫茶店に、タッパーを受け取りに行くエイトがいるはずだ。
明るい紅を差したような外国のマスコットの人形を吊るしたコットンバッグを肩から下げた。バッグには薄布でくるんだ絵本を入れてある。
私は洋服をワンピースに着替えてから、ブーツに足を入れた。気のせいか空気はピンと緊張を張り詰めたようであり、青白い靄はシンとした住宅街には珍しいものだった。
喫茶店が開店する前、図書館の本や資料を無人ポストに返却しようと、住宅街を抜けて、駅の方へ進んで行く。
すると、一台の車が停まるのが見えた。
車の窓ガラスからの反射で、一瞬、目の前の視界が閉ざされたが、その後、私は動けなくなってしまった。
ー彼だ。
助手席に座っていたのは、紛れもなく一年前に姿を消した彼だった。
白味がかったメタリックの車体、見たこともない乗り物に彼は確かにいて、こちらを数秒‥‥3秒ほどだろうか、凝視していた。
隣の運転席にはエイトが話していた女性が前方を向いて、口元には電子タバコのようなものをくわえ、車は発進するところだ。
その3秒間は、確かに私を認識することの証明になった気がしていた。
彼は私を忘れていない。
確信があろうとも、その場から動けなくなっていた。運転席の女性の口元がわずかに歪み、何かを男に告げたようだった。
勢いよくスタートした車は、急発進のためにタイヤが鳴き、エンジン音の振動がまるで私を嘲るかのようにスピードを増して走り去った。
ブーツの踵から、ゆらりと崩れそうになり、一瞬、よろめいた。
「みどりさん、大丈夫?」
エイトが両手で肩を掴んで、小さく痛んだ。
「ハチくん。
あの‥‥お兄さん、だと思う」
「うん、遠目だったけど、見たよ」
エイトは、まだ私の肩を押さえていた。
心なしか、その手は震えているように思えた。
「話せる?やっぱり、みどりさんは兄さんをよく知ってたんだ」
開店前の喫茶店は、こじんまりとした佇まいで私たちを待っていた。
しかし、そこに主(あるじ)は居ない。
ジンちゃんが店を開けるまで、エイトは私の部屋に来ることになった。
空気が澱んでいる気がして、二重のカーテンをまとめて開けた。
「寒くないですか」
緊張より、そこに居ておかしくない空気が流れていた。
エイトは、私と彼が住むはずだったマンションに足を踏み入れた。
「話さないといけないね」
コットンのバッグから『あの日のビー玉』を取り出して、ダイニングテーブルの椅子にかけたエイトの前に置いた。
エイトは少年に戻ったかのような表情で、悲しげに絵本を見ていた。ビー玉の表紙絵には、赤いリボンを摘まみ入れたような冷たい鉱物がいくつも描かれていて、一つ一つのビー玉は、今にも転がってきそうなリアリティを見せている。
「クリスマス‥‥過ぎちゃったでしょ」
エイトは絵本を開く前から、最終ページのクリスマスツリーとプレゼントの置かれている挿し絵を言い当てた。
表紙を開くと、几帳面な文字。
『Eightへ』
「兄さんがくれた最初で最後のプレゼントなんだ」
エイトは私が時間をかけて入れたココアをのぞくようにして、目だけ嬉しそうに笑う。
マグカップは赤く、分厚い陶器だから、両手にくるんでも熱いとは感じない。
「ホットチョコレートよ。牛乳を温めてからミルクチョコレートを入れて作りました」
2人とも、ゆっくりと温かい時間を大切に分けなければいけない、お兄さんの気持ちまで台無しにしてしまう危険をはらんでいることを覚悟していた。
ベランダには朝露が落ちて乾き、朝顔の萎れたところから、小さな種が付いている。
続く
↓前回のお話です
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