"エモい"と"何者かになりたい"
大人達は若者が「エモい」と言うと言語化能力の欠如だと言ったりするけど、そこで考えを止めているのであればそれこそ言語化能力の欠如だと考える。
若者がエモいと言うのは、カメラで撮影しているのに近い。自分が感じた事を素早く形に出来るが似た物になる。逆に言語化と言うのはデッサンに近い。出来上がるのが遅いが個人によって味がうまれる。
では、なぜ最近の若者は「エモい」などの抽象的な言葉を使うのかと言うと、時代の流れが早いからだと考える。情報が押し寄せていく現代にとって、いちいちデッサンなんてしている余裕は無いのだ。
ただ、冒頭で言ったように抽象的な言語の多用は素早く出来るが、オリジナル性がない。そこで若者達は「何者かになりたい」と考えるようになったのではないだろうか。
"何者"というのはつまり、"その人ならでは"がある事だ。写真撮影で言うと、「蜷川実花さんカラフルな花の写真を撮る人」であるように、「中藤毅彦さんが無彩色でカッコいい写真を撮る人」であるように、"その人ならでは"があれば同じ写真撮影でもオリジナル性が生まれる。
多くの人が抽象的な言葉を使う時代において、"何者"かになってしまえば、他の人と似た言葉を使っていても自分らしさが出ているように見える。だから今の若い人達は必死で何者かになろうとしているのではないだろうか。
そんな必死な若者達を、大人はエモいなと思いながら見守って欲しい。
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