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大阪都構想

つい最近まで東京に住んでいた私は、大阪都構想の前回の選挙の顛末も知らないし、今回の賛否についても強い関心が起きなかった。連日ポストに入れられてくる各陣営のチラシを読んでも、核心(自分なりの理解)は出来なかった。チラシの内容も、相手側の悪い点、それに比べて自分達の主張の正しさばかりを主張しているので、言葉に説得力がなく、非常に幼稚、民衆を馬鹿にしているような気がした。全く信用が出来ない。自らの弱みや反省点を顧みない人間の言葉なんて信じられないし、そもそも政治決定に裏心や野心が無い事なんてあり得ないのだから、開き直って自分たちの理想だけを堂々と主張すればいいのに、お互いが対抗相手を罵り合ってるだけなのだから、どっちに転ぼうが行く末は同じなのでは無いだろうか。上に立つ人間、判断して支える下々の人間、社会や文化が劇的な成長や成熟でもしない限りは体制や仕組みがどうなろうとダメなものはダメだし、結局は組織や構造の前に、個人が個人としてどう行動するか、どう生きるのか、そこしかないのではないだろうか。問題点を解決しようとして大きな構造的変化を目指そうが、現状維持をして見て見ぬふりしようが、どっちにしたって損をする側も得をする側もいる。投票行動も、動機も損得の決定権を巡る主導権争いにしか見えない。きれいごとを主張すればするほど嘘を付いている事になるので気持ちが悪い。本人達はその認識すら無いのだろう。仲間(この仲間意識とやらが様々な問題の元凶)を代表していると錯覚し、自分たちの都合の良く仕立て上げた正義を盲信し、先頭に立って戦っている勇者気取りは気持ちが良いのかもしれないが、群れている奴らには本当の言葉や真を問う事なんて言えるはずは決してない。組織と同化し、自分の頭で考えることを放棄し、借り物の言葉を並べ立てているだけだ。

各々が個々の独りとなり、己と向き合い、自分の頭で考え、誰の指図も受けずに自分自身の判断で導き出した答えで行動すれば良いと思うのだが、属している組織や体制、どっち側の立場の人間という意識が賛成か反対かを決めているような人こそ、進んで投票行動をする。投票行為がエゴの帰結、証明手段になってしまうので仕方がないが、結果如何で自己批判や総括に繋がる訳でもなく、根底にある被害妄想を助長したり、あるはずのない正当性を誤認識することを強めたりしてしまうのだから、もう多数決のような「住民投票」や「選挙」なんてものが時代遅れの産物なのではないだろうか。人間の愚かさや限界、集団の愚かさや怖さは近代の歴史で充分に証明した。もう前時代の仕組みとして、さっさと捨てる時期がとっくに来ている気がする。ビックデータの活用や統計学を駆使して、移ろいやすく流されやすい不安定な人間感情を排除して、テクノロジーに判断をすっぱりと任せた方が良い結果が導かれるのではないだろうか。人間は「人間性」というような括りで、曖昧な理想や言語や感情の善悪の絶対性に固執して、信じて、感情的に騒ぐ事が大好きだ。祭りの後の虚脱感で気持ちよく刹那に浸るのもたまらなく気持ちが良い。「ああそんな話もあったね、なんだったのだろうね」と早く遠い昔のことになればいいのに。

駅やスーパーの前などで、公共の場所でマイクを使っての演説は本当にうるさかった。彼らの言葉には中身があるようで全く無かった。罵る言葉や汚い感情からやっと解放される。終わって良かった。

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