モノ書きについて 【元部長】

 僕は文藝部に所属しているわけだけれど、基本的に、文藝部には文章を書きたい人たちが集まってくる。誰にお願いされたわけでもなく、自主的に、大学生活四年間のひとカケラを執筆に費やしてやろうと思って入部してくる人が多い(元部長なので一言断っておくと、文章の執筆にまるっきり興味がなくたって、入部は大歓迎です)。でも一体全体、なんの為に文章なんて書かなくちゃいけないんだろう?給料も発生しないし、やけに時間はかかるし、大抵の場合は役に立たない。書店には「文章力こそ最大のビジネススキルだ!」みたいな本も並んではいるけれど、文藝部に限った話をすれば、スキルの研鑽として文章を書いている人はいないだろう。もちろん、結果として実用的な文章力が身につく場合もあるはずだが、それは相当に時間のかかる迂回路なはずだ。
 個人的な領域を何かの媒介によって表出させることを「芸術」と呼ぶのなら、芸術の一領域である「文学」は芸術全般に共通するモチベーション─つまり、個人的な「くらやみ」とでも言うべき領域をどうにかして、何らかの手段で自己の外側に描き出すこと─と同様のモチベーションで支えられているのだと思う。そして、その「くらやみ」を描き出す手段としてゴッホは絵を選び、モーツァルトは音楽を選び、三島は文学を選んだ、と言えるのだろう。でもじゃあ仮にゴッホが文章に対して天賦の才を持っていたとしたら、彼は絵筆の代わりに万年筆をとって(いや、当時の筆記用具事情はよくわからないけど)自然への憧憬だとか、とめどないうねりみたいな、彼が絵画で描き出したのと同じものを文章で書き残したのだろうか。
 それは今となっては答えの出るはずのない問いかけだけれど、ある意味では正しく、ある意味では間違っているんじゃないかと思う。なぜなら、ゴッホにとって色彩の問題、つまりは絵画に固有の問題が大きな比重を占めていたから。表現の手段として、たまたま技術的に優れていた絵画の道を選んだのではなく、色彩という純粋に絵画に固有の問題に、彼は強く心惹かれるところがあったのだ。
 そして最初の方の話題に戻るわけだけれど、文藝部に所属して文章を書く人たちの中にもいくつかの動機があって、自己の「くらがり」の表現(「吐き出し」と言った方が近いかもしれない)の手段として文章を書く人もいれば、文章世界の開拓に大きなモチベーションがある人もいるし、モノづくり的な、普遍的な価値観に見合うことを追求した文章を書こうとする人もいる。
 そして僕個人としては、文章世界の開拓、言葉の可能性の追求に何よりもモチベーションがあることに、最近になってやっと気がついた。たとえば、有名文学賞の受賞作の紹介文で、コロナ禍での貧富の差の拡大を描いた、とか、マイノリティの苦しみを表した、とか書かれていても、正直僕はそこまで関心がなくて、それよりも谷崎潤一郎の美しい文章だったり、村上春樹のどこかひろびろとしたエッセイといった、文章の新たな可能性を示してくれる文章の方がずっとワクワクする。つまり文章というのはメッセージを伝えるただの箱じゃなくて、それ自体に豊かな世界が広がっているはずだ、と僕は思うのです。
 このnoteで続いていた連続投稿7週間の記録を途切れないように、ちょっと短めですが文章を書いてみました。今週からはテスト期間で、それさえ乗り切れば大学は春休みです(なんと驚愕の70連休!)。
 
 

 

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