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英語で「爆笑」が取れない

 会話中に相手を笑わせたの爽快感は何事にも代えがたい。顔は平静を保つが、心の中の小さな僕は狂喜乱舞している。ヒーローインタビューや記者会見が行われたりもする。その様子が翌日の新聞でトップニュースを飾ったりもする。もちろん心の中の話である。

1. カナダでの大苦戦

 カナダに来て、外国人の友達から爆笑を引き出せたことがまずない。別に日本でもそうだろ、と言われればそれまでだが、僕の名誉のために言っておくと9か月もあれば1度くらいは取れていたはずである。そう信じたい。異論があれば心の中にしまっておいてほしい。人は傷つく。

 もちろん言語力も大きな壁である。しかし、いつかのnoteでも書いたが、それ以上に大きいのはツッコミが存在しないこと。ツッコミによる訂正はマジレスだとみなされる。これが本当にきつい。相手の会話に適当に茶々をいれていればそれなりに笑ってくれる、あのコスパのいい道具の使用を禁じられるのは死活問題にほかならない。いかにツッコミという日本特有の文化が万能だったか、そしていかに自分の会話がそれに依存していたかということを思い知らされた。

2.ツッコミのない世界での末路

ツッコミを失った人間の会話は本当につまらない。

ぼく「中間テストどうだった?」
友人「悪くないかな、お前は?」
ぼく「まあまあ。全部オンラインだった?」
友人「いや半分は対面。入学して初めて対面でテスト受けたよ」
ぼく「そっかコロナ流行ってから入学だもんね。どっちが好き?」
友人「オンラインの方が楽かな」
ぼく「それはそう」

どうだろう。教科書の例文のような会話である。電車で男女がこんな会話をしてたらそのカップルは別れが近いだろう。盛り上がりのかけらもない。質問⇒回答のラリーを続けるだけのいわば記者会見のような会話だといえる。これを取材会話とでもしておこう。

ただし、上の例はまだ会話が成り立っているので救いようがある。淡々と続けていけば盛り上がりポイントが見つかるかもしれないし、見つからなくてもそれはそれで大惨事にはならない。地獄が訪れるのは相手がジョークをかましてきたとき。

ぼく「すみません、スカッシュのラケット返し忘れてました」
店員「了解。もう警察には連絡してるから覚悟して。」
ぼく「….ははは」
店員「冗談だよ、また来てね!」

紛れもなく僕の負けである。誰もが認める大惨敗。ジョークに対する上手い返しが思いついた試しが全くない。

 小手先のごまかしを失ったからには身一つで勝負しなければならない。つまり正真正銘の「面白い話」をしなければ笑いは取れない。ただしそうそう面白い出来事など起こらない。所詮事実よりも小説の方が奇なのだ。

3.苦肉の策

 そんなとき一つの光明が見えた。「笑わせられない」のであれば「笑われればいい」のである。最後の手段は自虐だ。そう確信した。人の失敗はいつだって面白い。幸い英語での失敗談は山ほどある。これだ。そう思い、渾身のミスを友人にぶつけた。

 友人の口角は確かに上がった。しかし、彼の眼は笑っていなかった。同情と憐みの視線。そしてこう言い放った。

「そういうこともあるよね。第二言語は難しいよねえ。」

 そのとき僕は思い出した。失敗を笑う文化が明らかに日本より薄いことを。もうがんじがらめ。笑わせることも笑われることもできない。今ここまで読んだ皆さんは彼と同じ目をしていることだろう。そして「海外での生活は大変だよね」とでも思っているのだろう。お願いだから笑い飛ばしてほしい。

幾多の人を救ってきたであろう「失敗を笑うな」という言葉にこんなに腹が立ったことはかつてない。味方に裏切られた気分である。「失敗は笑われて初めて完成する」こう訂正すべきではないだろうか。


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