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ナンニ・モレッテ監督「3つの鍵」

Nanni Moretti, Tre piani (2021)


親愛なるイタリア映画の「巨匠」、ナンニ・モレッティ監督の最新作です。


2001年の「息子の部屋」以来、モレッティ作品をみるのは20年ぶりでしたが。

イタリア語の原題、"Tre piani"は「3階建て」ほどの意味でしょうか。
ローマの高級住宅街にある低層の集合住宅にて、判事夫妻のドラ息子が引き起こした交通死亡事故をきっかけに、ワンオペ子育てに疲弊する母親、自宅勤務の共働き夫婦のすれちがい、老いと病など、現代の典型的な都市状況がてんこもりの集合住宅など、各階に暮らすそれぞれの家族が抱える問題がときにからまりあい、その行く末がパラレルに明かされます。

「親であることの責任」 la responsabilità dell'essere genitoriを問いかけながら、モレッティ流のさまざまな手だれた仕掛けをしこみながら(個人的には、ローマ人たちの中で孤独を募らせるワンオペママのフラアンジェリコ的な美しさが印象的でした)、「恐怖」「不安」「苛立ち」に踊らされる人間たちのコミカルさと悲哀をスパイスにして、物語は進行します。

個人の物語から出発したかつての奇人変人・モレッティもまた、ガンを2度克服し、成熟期を迎え、家族、老い、病、死へと視線を移行していくのは、モレッティ映画にいわれる自伝的な性質としては自然なのかな、と思いました。


モレッティが70年代半ばのデビュー以来、監督自身が演じる「ミケーレ」を通じて表現された実存の恐怖は、奇人変人的な言動、身振りで過剰化することによって、映画表現として昇華されてきました。そうした個人の物語は、「3つの鍵」においては、2020年代における複数家族の群像を設定することにより、より集合的な「恐怖」「不安」「苛立ち」として普遍化されたかたちで、表現されています。

たとえば、ローマ中心部の高級住宅と「家族」の設定でいえば、ルキーノ・ヴィスコンティ監督の名作「家族の肖像」が連想されます。

モレッティの明るく現代的なブルジョア的インテリアと、ヴィスコンティにおける貴族階級への郷愁をあらわにした薄暗いバロック調の調度とは対照的ですし、それはそのまま、個としてのエゴイズムと、集合化されたエゴイズムのあり方の違いに通じ、作家性の違いとも簡単に言えるのかもしれませんが。

両者とも、家族の住むローマの邸宅をおもいっきり大破させることに、物語の開始、帰結を求めたことは(偶然かしりませんが)共通しており、古代都市国家ローマの「家族=家」に対する執念めいた地霊を感じさせられます(妄想です)。。


*「3つの鍵」のメイキング映像:モレッティ先生のいかにも子供好きっぽい素顔が微笑ましいです。。



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