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白井晟一『無窓』筑摩書房、1979

白井晟一先生のエッセイ集です。
1952年から1978年の間に、新聞、雑誌、展覧会カタログなどの媒体に掲載されたエッセイがまとめられています。

手元にあるのは普及盤ですが、帯広告にある「皮装署名入 限定百部」は、3万2千円とありました。現物がみてみたいものです。


名著『無窓』はしばらく品切れ状態が続いていましたが、2010年に、晶文社から、松山巖先生の解説がついた復刻版が出版されたようです。


『無窓』に掲載された文章は、どれも数ページほどの短文で、「豆腐」「めし」「眼鏡」など、身近なモノやコトを軽やかな筆致で描きとるものも多いです。日常の風情を楽しむ京都の趣味人の顔をのぞかせます。

軽やかでありながら滋味深い文章がならぶ一方で、日本の建築批評史において有名な「伝統論争」において、メルクマールとなった「縄文的なるもの 江川氏旧韮山館について」(『新建築』1956月7月号所収)が収録されています。

「江川邸」は、静岡県伊豆の国市にある武家屋敷ですが、白井先生の文章によれば、当時は荒れ果てて崩壊寸前の状態であったようですね。そうした状況を嘆きつつ、この名建築の「縄文的」なたたずまいを絶賛しています。



「伝統論争」は、1950年代初頭から半ばにかけて、敗戦国・日本で、西欧文化としてのモダニズム建築と自国の伝統のあり方をいかに理論化するか、「縄文」と「弥生」を対立軸として、展開されました。編集長であった川添登先生が議論の仕掛け人として、『新建築』誌上でくりひろげられ、当時の気鋭の建築家諸先生方々が、同誌上で、嗚呼でもない、こうでもない、と、かまびすしい議論を行っていたらしいです。

時代背景としては、当時、ちまたで流行っていた映画が『ゴジラ』1954でした。芝浦に、核実験の化身であるゴジラが上陸し、地元の漁民たちが逃げ惑い、モンペに防災頭巾姿のおかみさんや子供達の姿は、さながら戦時中の様相でした。「カタストロフィ=空襲」の記憶が誰のなかにもなまなましく残る時代です。

そんななかで、「伝統論争」は、日本古代の文化に現代を重ね合わせることで、まだ輪郭が定まらない日本の同時代の建築を歴史的に合理化していく作業であったのかもしれません。そこでは、一般的には、白井晟一先生=「縄文的」で丹下健三先生=「弥生」の対立に収斂したとみられる向きもあるようですが。

川添登先生は、1960年のメタボリズムの仕掛人。メタボリズムの場合は、建築家たちの間の議論の対立軸を設定することで、思考を展開、深化させ、実作としての建築デザインを深化させると同時に、建築を理論化することにより、日本のモダニズム建築を世界の建築の流れに位置付けることに成功しました。

そう考えると「縄文」「弥生」という概念そのものは議論上の指標にすぎなかったのかもしれませんし、そこに足をとらわれるべきではないのでしょうが。

どうも白井先生の建築を眺めていると、「縄文」というのが、感覚的にピンときません。

白井先生ってジョウモン〜〜〜?
あんなにバロックで優雅なのに〜〜〜〜?
・・・女子的にはそう思います。
(中年ですが)


IMG_8991のコピー

白井先生の「縄文的なるもの」をあらためて読みかえすと、白井先生、この静岡に現存する武家住宅について、「虚栄や退廃がない」「武士の気魄(きはく)そのものであるこの建物の構成、縄文的な潜力を感じさせる珍しい遺構」と評価した上で、「縄文の原型、蓄積、持続の筋道に関する究明や、その強靭な精神の表現を完結した典型として発見しようという試みは往々付会に堕ちたことを知っている。」と断じています。

その上で、「われわれ創るものにとって、伝統を創造の契機とするということは終結した現象としての型や手本からの表徴の被を截りとって、その断面からそれぞれの歴史や人間の内包するアプリオリとしての潜能を感得するとともに、われわれ現実へ創造の主体となる自己を投入することだといわねばなるまい。」
(p.85)

白井先生と静岡の関係というのもチョット興味深いですが、ともかく、「縄文」的、「弥生」的と安易に対立させて、縄文っぽい建築(ますらおぶり)、やよいっぽい建築(たおやか、女性的、)、安易に典型化させて、便利なデザインとして使いまわすのではなく、江川邸の遺構にこめられた「無音な縄文のポテンシャル」を、建築という創造的行為者は感じるべき、とする意思を明らかにしています。

つまりは、建築の形式を、単に表層的な「縄文っぽさ」「弥生っぽさ」に類型化するのではなく、美学的な文脈において、江川邸が実現するある種の創造的な伝統のもつ潜在性を、建築家はそこに創造性を持って感受することがだいじ、みたいな、というところでしょうか。

白井先生の主張は、「縄文」「弥生」を単純な男性・女性原理に回収することを避けた上で、モダニズムの時代における伝統的建築との向き合い方を理論化した点で、伝統論争を批判的に発展させたのだと思います。

嗚呼、白井先生。素敵すぎます。

そんなわけで、「縄文なるもの」の素敵さを再確認した上で、そういえば、じぶんのかいたブログをみかえしたら、ちょうど11年前、2010年5月頃に「建築家における縄文か弥生」問題について書いていました。

「縄文顔の建築家と弥生顔の建築家で、作風は異なるか?」という、かなりくだらない議論でしたが。いまさら見直すと、1950年代における「白井=縄文」「丹下=弥生」の対立図式って、もしかして建築家のヴィジュアルイメージ?、、、とも思います。気のせいでしょうが。

https://unitjiji.exblog.jp/14442980/

そういえば、2010年4月ごろ、「虚白庵」が解体されたのだそうですね。最近になって知りました。かってに感慨深いです。。


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