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ゲルハルト・リヒター展@東京国立近代美術館

6月頃に行きました。「ドイツが生んだ現代でもっとも重要な画家」(パンフレット)、ゲルハルト・リヒター先生(1932ー)の個展です。

2021年11月にゲルハルト・リヒター財団の設立が公表され、今回は実質的に、財団所有のコレクションを中心とする展示となっています。財団設立は、高齢のリヒター先生が、作家蔵の作品を財団所有に権利移転する目的であったのではないかと思われますが、1990年代までの作品は作家の手元にはほとんど残っておらず(カタログp. 7)、これが今回の展示が2000年代以降の最近作中心になった事情なのかな、と思います(*)。

このあたり、売れっ子ならではの逸話なのかもですが。。

ともかく。

ドレスデン生まれのリヒター先生が、1961年のベルリンの壁建設開始の直前に東ドイツから西ドイツに移住して、いかに美術家として歩みはじめたのか。このあたりの展覧会の空白を埋めるピースは、浩瀚な展覧会カタログで補われているのかもしれません。ここに収録された論文や、リヒター自身がみずからの作品をかたるインタビュー、展覧会では展示されなかった初期の作品の紹介は、なかなか興味深いです。

カタログの中で個人的に心惹かれたのは、1967年9月に撮影されたという、ハイナー・フリードリヒ画廊(ミュンヘン)のウィンドウ前にすわりこむヤロー4人組の写真です(カタログp. 279)。

左端からコンラート・フィッシャー(リューク)(1939-96)、ジグマー・ポルケ(1941-2010)、ブリンキー・パレルモ(1943-77)、右端がリヒターです。「デモンストラティブ7」展に4人揃って参加した際の記念写真のようです。

4人はデュッセルドルフ美術アカデミーの仲間です。リヒターは1961年に西ドイツに移住した際に同校に学籍を登録して学生生活を再開しました。

ちなみにこの頃のデュッセルドルフ美術アカデミーは、61年からヨーゼフ・ボイス先生(1921−1986)がスタジオを主催しており、才能あるところにひとがあつまるということなのか、アカデミーからは若い才能が巣立ち、リヒターもそのひとりでした。

一方、フィッシャーやポルケとは入学当初から仲が良かったようで、東西ドイツを意識した「資本主義リアリズム」と銘打つ冷戦下的コンセプチュアルな活動を一緒に行なっていたようです。

カタログのこの写真、アーティスト4人の個性がそれぞれあらわれていて、なかなかチャーミングです。

20代後半のフィッシャーくんはグラサンに上目使いでたばこをふかす、イキったチャラ男ぶりが印象的です。痩身のポルケくんは理屈っぽそうだし、最年少のパレルモくんは朴訥・繊細そうでいかにもボイス先生の秘蔵っ子という様子。一方、右端のリヒター先生は35歳にしてすでに子持ちで、旅先でうわついた若者たちの傍らに座り、いかにもお父さん然とした落ち着きはらっています。

ちなみに、フィッシャーくん、才能豊かなリヒター氏と行動を共にしながらも、おのれの美術家としての才能の限界をはやばやと悟ったようです。

作家として参加したシュメーラ画廊にて、シュメーラさんから「フィッシャーくん、きみにはギャラリストの才能があるねえ!やっっちゃいなよ!」とおだてられて、本人も・・・やっぱりそうかなあ、、おれってセンスはいいけど根性ないし、、だいたいリヒターくんみたいに丁寧・キレイに画面を仕上げる執念もないしなああ、、とおもったかどうかはわかりませんが、はやばやとアーティスト人生に見切りをつけて、1967年にはデュッセルドルフにて、弱冠27歳にして自前のギャラリーを開設し、アメリカのミニマル・コンセプチュアルアーティストたちをギャラリーに精力的によびよせ、米独のアートを結ぶなど、八面六臂の活動を展開させます(このあたりは「ミニマル/コンセプチュアル」展のカタログに詳しいです)。


リヒター自身も1970年から1996年にかけてフィッシャーくんによばれてギャラリーで6回の個展を開いています。またおなじくフィッシャー・ギャラリーで個展を開いたロバート・ライマンら同時代のアメリカ人アーティストたちと交流するなど、アーティスト人生のなかで、フィッシャーくんに助けられた部分も大きかったのかもしれないですね。適材適所です。

ちなみに本展のカタログ所収のインタビューで、リヒター先生がフィッシャーくんを回顧する場面があります。60年代半ばのアトリエにて、「鹿」の絵をかいていたリヒター先生のところに遊びにきたフィッシャーくん、瞬時にこの絵画の重要性をみてとり、ここからリヒターは新境地をひらくきっかけになったとかならなかったとか。

そんなこんなで、フィッシャーくんの美術センスはすごい!と証言をしており(リヒターいわく「まあ、パレルモも同じようにセンスがあったけど、ポルケはだめだったなあ」と失礼発言)(カタログp. 218)、フィッシャーくんのギャラリスト、プロデューサーとしての能力は仲間も、とくにリヒターも買っていたたようですね。草葉の陰から嬉しい悲鳴が聞こえそうです。

写真一枚を眺めるうちに、妄想たくましくすれば、なんだか、個人的にいままでイメージの薄かった1960年代の西ドイツ美術の一面が、少し像を結んできた気もしました。

そんなこんなで、最初は「なぜ、リヒター先生が「巨匠」とされるにいたったか、なぜ他の誰でもなくリヒター先生だったのか」という壮大な問題設定を、フィッシャーくんをからめて冷戦下の西欧世界における西側陣営の現代美術的戦略とその版図、みたいな感じで、解き明かしてみたかったのですが、当然ながらよくわからなくなってきました。

カタログをながめていると、むしろ、リヒターが才能に溢れ、仕事も丁寧で、いつもいろんなテーマにチャレンジする実験的な努力家で、それをギャラリストをはじめ周囲がみとめてサポートし、信頼されて、結果的に作品は高値で売買され、いつしか売れっ子の巨匠になっていきました、という、つまらない結論に陥ってしまいそうですが、、。

1971年にはデュッセルドルフ芸術アカデミーの教授に就任したリヒター先生ですが、ベルリンの壁に阻まれ退路のない人生を絵画制作にかけ、同時代において頭ひとつ抜きん出た存在になっていたことは、そうなようです。


*全展示中、1960−80年代は10点(内1960年代4点、1970年代3点、1980年代3点)、残り128点は1990年代〜2020年代(1990年代14点、2000年代16点、2010年代73点、2020年代25点)


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