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声と、身体と、生きていること

空が澄んできて、外気が鼻先を冷たくする。
冬が深まってきたと感じる。


「ねむい」と言う回数が増えた。
予定がなければ、永遠に布団の中にこもっていられそうだ。
衣擦れの音と、体温の反射による蓄熱。
心を自分の内側に向けるには、とてもいい季節だ。
なんとなく、冬に充分こもっておくからこそ、夏の躍動がより弾けるような気がしている。




自分の本来の歩き方。
自分の本来の声。

そういうものに、集中して耳を傾ける時間が、ここ数年、しっかりと取れていて、ありがたいことだと感じる。

歩き方に関しては、ほんとうに素晴らしい先生と巡り会えたものだと思う。

自分を形成するすべての骨が、本来あるべき場所で、本来あるべき動き方をする。この過程をサポートしてくれる先生に師事するようになって、もうすぐ2年。


歩き方が変わったら、姿勢や身体つきだけじゃなく、性格まで変わった。
身体への自覚。知覚。
これは、精神的な安心感、安定感につながるのだなと知った。



そして、声に関しては、ひとりで何年も続けている。
自分の身体のどこから声が出ているのかを、感じながら、確かめながら話す。歌う。
こういうことを地味に、何年も続けている。

続けていたら、
「身体のどの辺りから、どんなふうに声が出ている時、自分が一番心地いいのか」
が段々とわかるようになってきた。

心地よい声のバイブレーションは、自分の真ん中に、静かに光る粒子が集まって織りなすかのような、一本の太い、見えない柱を作る。



「声には全てが表れる。」
これは、ほんとうだと思う。

リラックスしている時、幸せを感じている時。嬉しい時。
自分から、好きな音が出る。ずっと、だけど必要な言葉だけをゆっくり、話していたくなるような。

逆に緊張している時や、ストレスを感じている時の自分の声。
脳にきんきんと響くような、嫌な音がする。


自分の怒りを人に伝える時も、声の出どころに気をつけていると、あまりストレスはない。
余裕がない時は、後頭部のあたりから、キィキィした声で伝えてしまうけれど、余裕がある時は、怒っていてもちゃんと、臍の下の方から声が出る。

「この怒りは、相手を責めるために使われているわけではない。」
このことがよくわかっているから、ストレスに感じないのだろう。

感情を相手にぶつけて、発散させようとする怒りと、愛を伝えるための怒りがあると、感じている。

わからないけど、多分前者は、過去の傷が出所。
そして後者は、愛が出所。



と、上に書いたようなこと。あれこれ探りながら、見つけながら、時々自分で自分に、何をやってるんだろうな、と思う。
一体いつまでやるんだろう、これ。と。

この身体が存在して、活動を続ける以上は、上に書いたようなことを知っている方が、「生きるのが楽」というのは、わかる。


実際、年々どんどん楽になっていくな、と思っている。



これまで生きてきて、いいことも悪いことも山ほどあった。
死んでもいいなと思えるくらいの喜びも、もう死んでしまいたいと思えるほどの苦しみも、体験してきた。

理解できないようなこと、「信じていたことの外側」なんてものにも、山ほど出会った。これからも、生きている間は出会い続けるんだろうな、と思う。


全部全部、ぜーーーーーーんぶ、体験したかったのね、私。と思う。
全部全部、ぜーーーーーーーーーんぶ。どんなに痛くて辛くて苦しかったことですら。

ほんとうに、笑っちゃうくらい、必要な体験、欲しかった体験だったのね、と思う。

体験してきたことの全部が、私の人生の物語を面白く、そして唯一無二にしてくれた。


だからなんだか気分的には、すでに大往生みたいな感じがある。




この身体が、活動を止める時がいつ来るのかは選べないけれど、(もしかしたら、それすらも、自分の見えない意思で選んでいるのかもしれないけど)

楽しめるだけ「余生」を楽しんでおこう、と最近は思う。

まだやったことのないことも、すでに何万回もやったであろう大好きなことも。その時やりたいことを、一個ずつ、焦らず。
味わい尽くそうと思う。

家族が、大好きな友人が、喫茶店が、木々や花や空の移ろいが。
流れていく時間までもが。
ここ最近、愛おしくて仕方ない。


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