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喫茶店になってきた

喫茶店を開いてから
早いものでもうすぐ8年になる。

何をやっても続かなかった私が
喫茶店だけは、よくここまで続いたなと
自分で自分にびっくりする。



【開きたい時に開く】


そんな、飲食店としては異例のスタイル。

だけど、私にとっての
「超・自然スタイル」でやってきたからこそ
続いたんだなと思う。


開業の頃は周りに理解者がいなくて
むしろ不定期開店に反対する人なんかもいて

ふむ、なかなか孤独な戦いだった。

だけど、「超・自然スタイル」を貫いたからこその、ほんとうの理解者、共感者、友達、ファンの方々ができたと、いまでは感じている。



なんでもそうなのかもしれない。
はじめるときは、いつもひとり。

だけど、自分が「これ」と信じたことをひとりでも黙々と続けていれば

友達は、仲間は、理解者は、必ず得られるんだな。と。

とても大きな学びを得る、貴重な日々だった。


そして、そんな期間を経て、今思うことは

「ふつうの喫茶店をやろう」

ということだ。


おもしろいものだなと思う。
自分の変化が、愉快だ。



自分の我欲を貫いた喫茶店をやろうと。

「いつ開いているかわからない不便さ」が
この喫茶店の面白さだと。魅力だと。

「おかしな喫茶店だからこそ」
人が集まってきてくれるんだと。

ずっと、そう思っていたのに



「我」を守ろうとしなくていい。
なんら「ふつう」でいい。

ふつうに、作っている空間や食べ物飲み物へのこだわりや誇りを、前面に出していけばいい。

喫茶店を訪れる人たちにとって
もっと便利なスタイルーーー

頻繁に、定期的に開いているというスタイルを。

「行きたいな」と思ったら開いてる、というスタイルを。

いまは、選ぼうと思う。


こんなふうに考えるようになるには、最近身辺で巻き起こった、いろんな出来事や流れが強く影響している。

特に大きかったのは、最近、大好きな友人が、突然に亡くなったことだ。

あまりに突然で、友人本人がもしかしたら、一番びっくりしているかもしれないと思う。


友人は、たくさんの人から愛されるカフェを営んでいた。
友人本人も、友人の開くカフェも、たくさんの人の拠り所になっていた。

行けば、会える。
行けば、いつもそこに居てくれる。
いつもそこに、在ってくれる。

そういう、絶対的な安心感があった。


それが、ふとしたときに、突然に無くなってしまった。

これまでだって頻繁に会いに行けていたわけではないのに、喪失感は深く、大きかった。


この突然の喪失感を、埋めたかったのかもしれない。

ここ1ヶ月ほどはなぜか、告知もせずにほとんど毎日、喫茶店を開いていた。

開いておきたかった。


固定の営業時間がない喫茶ラムピリカは、告知をしないことにはお客さんも殆ど来られない。

それでも構わなかった。

今は、とにかく「開いている」ということを、やっておきたかった。


「開いている喫茶店」で、ひとり静かに居る。
そういう、長い長い時間があった。


ぽつぽつと、時折、近所のお客さんが訪れた。

遠方からわざわざ来て、たまたま開いていたと喜ぶお客さんもいた。


とにかく、いまだかつてないほど長い時間、喫茶店を開いておいた。


そのなかで、わかったことがあった。

「私は喫茶店を、もっと開いておきたい。」

「ふつうでいい。全然、ふつうの喫茶店でいい。」

「なかなか開いてないとか、わざわざ敷居を高くしなくていい。」

「ただ淡々と、神社や図書館みたいに、この場所が開かれていてほしい。」




実は、喫茶店を閉めようかと思ったことは一度や二度じゃない。

そもそも、私は「カフェがやりたかった人間」じゃない。

仕事も育児も家事もすきなことも、すべて「一つの場所」で完結させたかったが故に開いた喫茶店。それが、ラムピリカ。


開業時は幼かった娘たちは、最初に願った通り喫茶店で育ち、今では高校生になって、私の手をほとんど離れた。

開業当初の目的は、とうに失われていた。


だから、生活を安定させるために、喫茶店を辞めて教員に戻ろうかなとか、会社勤めに戻ろうかなとか。

そう考えたことも実は、何度もある。


それでもどうしても、「やっぱり喫茶店だな」と思い直せてきたのは、喫茶店への愛着、喫茶店を訪れる人たちへの愛着。

自在に変化し続ける面白さへの、愛着。

そんなものが、すっかり定着しているからだとおもう。


そして、この喫茶店のもつ無限の可能性。

まだまだ、全部は引き出せてないんじゃないかなと思う。まだまだ、やれることがある気がしている。

もっとたくさんの人の拠り所になれる気がしている。


以前は、誰かに「拠られること」が嫌だった。
だって、「いつ閉めてもいいように」と思いながら、続けてきたんだもの。

だけど今は、平気でそれをーー
「拠られること」やってみようとおもう。

むしろそのことで、私にも、喫茶店にも、そしてもちろん訪れる人たちにも、命が、エネルギーが、愛が吹き込まれるんだと思う。


私とは全く違うスタイルでカフェを営んできた友人を、全く違うというのに、なぜあんなにもリスペクトしていたのか?

今なら理解できる気がするの。



こんな感じ。
もうすぐ八年目を迎える喫茶ラムピリカは、
所在のよくわからなかった喫茶店は、

やっと最近、

「喫茶店になってきた」



安心して、

「喫茶店になっていこう」

そう思っている。

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