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肩の痛みが半分くらい減った件

昨日(というか今日というか)は全然眠れなかった。
昨日の昼に久々に友達のお店のジャズセッションに行って
すごくいいピアノで歌ったからなのか、自分の言語化しきれなかった気持ちを言葉にしたからなのか
脳がずっと活性化運動しっぱなしで、ちょっと寝ても中途覚醒しまくりだった。
昨日の平川勝朗さんのピアノは初めて聴いたけど、本当にすごく良くて
それは単に「歌いやすい」だけじゃなくて、曲のその先の世界が見えるようなピアノだった。
「その先の世界」、まだ見ていないものに心拍数があがっちゃって寝られなかったのかも。
ライブやりたいけど、今の私の状態では力不足だと思うので
まだもうちょっと先じゃないとダメだなと思った。
起きてからもなんかバンブーの店の匂い?が体から出てる気がして、
昼過ぎてもまだ残り香があるような気がして、不思議な感じだ。

いろんな人が、いろんな声をかけてくれて
私のなかでまだ消化しきれていないんだけれど、
よくよくその内容を砕いて整理してみると、
みんな同じことを言っているような気がしてる。
それに対してどんな自分で、どんな在り方でいたいのかを決めきれていないのは私のほうなんだと思う。
そんなこんなを頭の中でグルグル考えていると、
1年スパンで痛みのあった右肩の痛みが半分くらいになったんだよ(マジ)

前回の「なぜヨガをするのか」の話、そのほかにもまだいくつか理由があって
尊敬するミュージシャンがみんなヨガやそれにまつわる思想に傾倒している傾向があるからというのもあるなと思ったのと
それはあながち間違いではないのでは、と思っている。

アーロン・パークス、シュルティボックスでドローン流しながら歌うの図

体を痛めることはあれど、ヨガの恩恵は色々とあったと思っている。
やっぱり「歌う」というのは筋肉を使うことであって
歌う気がマイナスに振り切った時期、いざまた「歌いたい」となったときに
筋力(と精神力?)が落ちていて歌えない状況になっていたら困るから、という理由もあった。
その判断も間違っていなかったなと思っている。
っていうか、時々「なんで辞めたん?」と言われることがしばしばあったんだけど
本人、辞めたつもりはあんまり?全然?なかった。
なんというか、「帰ってくるのを待ってる」という表現が近い気がする。
むしろ「辞める」「続ける」の概念がなかった。
他所様になにか宣言しなければならないほどの影響力のある人間でもなく
そもそもが零細企業なので
仕事ならまだしも、自分が自らの意思でやっていることに
「やめる」「つづける」って考えることがあまりよくわからない。
自分と切っても切り離せない存在なら、そういう感覚にならないんじゃなかろうかと。
M山さんには「虎視眈々としてた」と言われたけど、それに近いと思う。
これからも「やめる」「つづける」の概念がないところでやっていくんだと思う。

なんだか外側の世界が徐々に変わっていっている感覚。
それにまだ自分が追いついていないのかもしれない。

なんか最近、無性に写真が撮りたい。
レンズ欲しいなと思っていたけど、欲しいレンズは生産が追いつかず出荷停止になっているらしく
とりあえず春に向けてカメラ用のリュックは買いました。


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