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壁新聞とかZINEとか良いよねという話│ひとりアドベントカレンダー#14

ひとり壁新聞局

小学生の頃は、一人で勝手に壁新聞を作って教室に貼っては、先生に叱られているような子どもだった。

特に小学5年生からは社会科に歴史が入ってくるので、その頃から歴史屋さん気取りだった私は、せっせと勝手に歴史新聞を制作していた。千利休にインタビューしてみたり、薩長同盟のスクープを入手してみたり。大化の改新を報じた新聞には飛鳥時代の乳製品「蘇」や「醍醐」の広告を掲載したりもした。平安時代の新聞なら牛車のレンタル業者とか。

紙か、デジタルか、紙とデジタルか

一枚の紙を広げて、レイアウトを考え、自由自在に手書きでわちゃわちゃと書き込んでいく壁新聞づくりを楽しんでいた小学生は、中学生になってパソコンを与えられた。

親から譲り受けたお古のWindows98(!)を開いては、Word98を駆使しまくり、ペライチに内容をぎゅっと詰め込んだ生徒会報を作り始めた。「ジジジジ……」と低くうなりながらすぐ熱をもつ、分厚い筐体が今となっては妙に愛おしい。

高校受験が終わって暇になると、クラスの悪友と校務員のおじさまと一緒に特になにもしない秘密結社のようなものを結成し、「創刊号」と「終刊号」しかない結社紙を堂々と制作して流通させ、職員室の先生を爆笑させた。本当に、昼休みに校務員室前でただただ駄弁っているだけの秘密結社だったので、中身のなさこそがギャグであり、結社紙の持ち味だった。

デジタルツール(といってもWord98だが)を使うようになっても特に不自由は感じず、むしろ楽しんでいた。テキストボックスをこれでもかと配置・回転させ、あらゆる種類のフォントをペライチにモリモリに入れたおかげで激重ファイルを拵えてしまいつつも(※今のPCと比べて本当にすぐ重くなる)、手書きとは異なる表現の拡張性というか、おもしろさを感じていたと思う。

紙偏愛かと思えばそうでもない

ひとり壁新聞局のツールは手書きからデジタルへと移行した。とはいうものの、手書きしようと、デジタルツールで作ろうと、結局は紙に印刷して流通させるのが好きなのだと思う──とかなんとか言っちゃって、ホントか?と疑わしくなってきたので、自分が紙とデジタル双方にどのように関わっているか整理してみた。

●書く+流通させる
・web
●読む
・小説、評論、趣味の本:紙書籍
・漫画:web

……改めて整理すると、まあまあ一貫性がない。“そんなに紙が好きなら、自分で文章書くときも壁新聞とかZINEとか作ったらええやんけ!noteで書いてる場合か!”という声が心の中から聞こえてくるような気がする。

いや、コンテンツ作ってもデリバリーがうまくいかなかったら読んでもらえないから。自分ひとりだと書籍一冊流通させるのもままならないから、こうして便利なプラットフォームをありがたく使わせてもらっているのである。

「紙面」をつくりたいという気持ち

それでも、noteやブログみたいにただただつらつらと文章と画像を交互に出すような体裁だけでなく、自分なりのレイアウトや筆跡で書いたものを流通させてみたい気持ちがある。教室に壁新聞を勝手に貼りだした日、クラスメートが「なんだなんだ」と新聞の前にたむろし始めるときのわくわく感をまだ追っている気がする。

視覚的なレイアウトは、こういうベタ打ちの文章の構成とはまた異なる読者体験をもたらすし、それこそ作り手のものの見方や価値観がにじみ出てくると思う。

さらに、手書きで書いたなら、ちょっと文字数が入りきらなくて文末の字が小さくなっちゃったり、無理やりねじ込んで斜めになった吹き出しやコラムがほほえましかったりする。そういうファジーさや無理くり感が人間っぽい

だったら、手書きの壁新聞をスキャンしてnoteにのせたらいいのかもしれない。あるいは、FUJI XEROX様のマルチコピー機にお世話になって、「コピー機から紙として出力しないと読めない」という些かのめんどくささとともに、しかし日本全国に、ペライチの壁新聞を配信してもいい。

歌人・ほりしずかさんの「かしわ新聞」、ネットプリントで出力して読んでたけどあれは良かった。

壁新聞から始めて、ゆくゆくはZINEでも作ろうかな。

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