毒舌キャラの憂鬱
書きたいことは山のようにあったはずなのだが、いざ書いてみようとするとなかなかでてこないもので、早々と週一ペースを乱してしまっている。
それならば、何も書けないことについて考えてみようと思う。
話題がでてこない、というよりは、素直な本心を語ることにブレーキが掛かっているような感覚がある。下書きで放置してある記事はあるのだ。だが、どれも核心を突こうとするとキーボードを打つ手が止まってしまう。
それもそのはずで、私が生きる上で困難を抱えていたのは、本音を晒してこなかったからだ。何を考えているのかよくわからない、とはいわれる。
他方、私は集団の中での生存戦略として、所謂「毒舌キャラ」という役割を積極的に引き受けていた。周囲が腹に燻ぶらせているものを巧みにすくい上げ、忌憚のない表現で言い捨てる、聞いていて痛快ではあるだろう。
……いっているのは自分ではないし、本当はそうは思っていない、あいつは言いすぎだ、という顔もできることを含めて。
残念ながら、実社会においては、「あなたが好きです」という言葉は偽善的に響くものであり、「あいつ馬鹿だよな」という一言のほうがよっぽど支持を得る。
このような見方はあまりにも冷笑的であるし、私とてこれを良しとは思っていないが。
なぜこのようなことになったのかといえば、私がいじめられっ子だったことに端を発する。言葉尻を捉えてからかうような人間が嫌いで、取り付く島がなければ良いのだ、と鋭く短い言葉で相手を黙らせる術を身に着けたのである。
筋の通らないことはただの暴言になってしまうし、批判するのなら自分もできるだけ正しくなければならない、と、人一倍真面目に振る舞うようにもなってしまった。常に緊張を強いている状態だったのだが、そんなことは子供の頃からそうだったので、気づかなかったのだ。
それが音楽活動を始めてから徐々に破綻してきたように思う。働く上でのストレスに加えて、音楽活動でのストレスも掛かって、それを上手に解消することができずに心身のバランスが取れなくなってしまったのだ。
当時は飲食店でアルバイトをしていて、サービス業に対する不満が募ったせいだと思っていた。他にも理由があるにしろ、職を変えればもう少し穏やかに仕事が出来るのだと思った。そうではなかったのは、他の項でも書いたとおりだ。
陳腐な表現をすれば、私は愛に生きたかったのだろう。
優しい言葉を口にしたい、ほんとうの気持ちで行動したい、できれば楽しく笑っていたい。それがとても勇気のいる生き方だと、私は知っていた。
善意は差し出せば差し出した分だけ、簡単に食い潰されてしまう。美しくあろうとすれば、潔癖すぎると煙たがられる。それに落胆せず、見返りも求めず生きられるとは思えなかった。それなら何も求めず、差し出しもしないほうが楽ではないか。
傷ついてまで愛されるより、傷つけて孤独でいるほうがいい。
私は、この臆病で、狡くて、愚かな自分を脱ぎ捨てることに苦しんでいるのかもしれない。
執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!