会えないのは寂しいけれど
会えなくて寂しい人がいるのは幸せなことだ。
おかしな感覚だと、他人はいうのかもしれない。
寂しいのは辛いことだ。
そうかもしれない。
できれば誰とも顔を合わせたくないと思って生きていた。
他人は面倒なだけの存在だ。何かと詮索したがり、根掘り葉掘り聞くくせに、次に会った時には何も覚えていない。好き勝手に意見しては、お前のそういうところが良くないと断じる。信ずるに値しない。
彼らに対して表面を取り繕うなど簡単だ。あなたに害意はないのだと微笑みさえすれば良いのだから。多くの人はそれで納得する。誰も私のことなど見ていない。
そこにあるのは、最低限自分に対して被害を与えない人物、という概念である。それを善良な人格として評価しているのだ。その下にある統制のとれない不純なものは切り捨てられる。それこそが私自身だというのに。
見えていないのであれば、私などいなくても同じことだ。
「あなたは面白い人だね」と近寄ってくる人はいるが、そういった言葉が私をがっかりさせることも多い。メディアにあふれる話題を消費するかのように、退屈しのぎとしての「面白いもの」として触れてくるからだ。
自分自身を正しく捉えてもらおう、ということ自体がわがままである、それは私も承知しているが。
私のことを知るたびに、その新鮮さに驚き、そして喜ぶ人がいる。決して揶揄するでなく、拒絶するでなく、また少し知れて良かったと、受け入れてくれる人がいる。
贅沢な関係だと思う。
心地よいからもっと色々なことを話したい、とは思うけれど状況に許されず、もしかするとこのもどかしさこそが心地よさなのかもしれない。待ちに待った小説家の新作を読むような、高級なチョコレートを少しずつかじるような。
何か思いついたことを、感じたことを、彼らに聞いてほしいと思うことがある。これはきっとあの人が気に入るだろうと思うかべることがある。
すぐにはそうできないから、人は苛立つのかもしれない。
けれど、私はその寂しさを理由にして、外へ出たい、誰かに会いたい、と思える自分を少し嬉しく思えるのだ。
執筆活動で生計を立てるという目標を持っております!!