横浜トリエンナーレについて


 なぜ現代美術には常に批判がつきまとうのか。人々は現代美術に何を期待し、何に対して快を感じているのか。快は最終目的であるのか。「現代美術」という語は実存するそれ自体と比較するとき適切であるといえるか。2024年開催の横浜トリエンナーレを鑑賞したうえで、改めて上記を主にSNSを中心とした批判的言説から検討し著者である私の感想(オキモチ表明)としたい。

概要

[タイトル]
:第8回横浜トリエンナーレ「野草:いま、ここで⽣きてる」

[アーティスティック・ディレクター]
:リウ・ディン(劉鼎)、キャロル・インホワ・ルー(盧迎華)

[会期]
:2024年3⽉15⽇(⾦)-6⽉9⽇(⽇)

[会場]
:横浜美術館、旧第⼀銀⾏横浜⽀店、BankART KAIKO、
クイーンズスクエア横浜、元町・中華街駅連絡通路

[主催]
:横浜市、(公財)横浜市芸術⽂化振興財団、NHK、朝⽇新聞社、横浜トリエンナーレ組織委員会

展覧会公式サイト

横浜トリエンナーレは、横浜市で3年に一度開催する現代アートの国際展です。これまで、国際的に活躍するアーティストの作品を展示するほか、新進のアーティストも広く紹介し、世界最新の現代アートの動向を提示してきました。
 2001年に第1回展を開催して以来回を重ね、世界の情勢が目まぐるしく変化する時代の中で、世界と日本、社会と個人の関係を見つめ、アートの社会的な存在意義をより多角的な視点で問い直してきました。

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概念

 タイトルである野草は中国の作家である魯迅が中国史の激動期にあたる1924年から1926年にかけて執筆した詩集『野草』(1927年刊⾏)に由来、この詩集には、彼が中国で直⾯した個⼈と社会の現実が描かれている。

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 野草は孤独で不格好で弱い存在としてのみ描写されているわけではなく、無秩序、反抗的で自己中心的であることを含意し、象徴としているのだといえる。
 あらゆる存在が別の存在とつなぐもので、相互関係への過程、またそれ自体が経験そのものを示すという。個である者があらゆるシステムや力を乗り越え、尊厳ある存在、自由で主体的な意思をもった表現のモデルでもあるとディレクターは概念に彼ら自身の思いをのせている。
 著者自身が実際に鑑賞した限りではこの概念と実際の展示に乖離は見られなかった。むしろ成功していたように思う。とにかく作品・空間からは個が抱えている問題をいかに鑑賞者に伝達するのかが最優先事項だと思われ、またそのことが批判につながっていくのではないかと考えている。

批判

 何が批判を生み出しているのかSNS媒体での反応から分析すると、以下、大きく3点に分けられているとここでは仮定する。個別の作品には言及せずこれらの問題を詳細に見ていく。

  1. あまりにも説明的であり、「美術」作品として成立しているのか疑問である点

  2. その説明的である作品から生まれた政治的主張がストレートに鑑賞者に投げかけられ、その内容が既に食傷気味になっている点

  3. 技術や視覚から得られる新規性、創造性としての快を感じられず作家と鑑賞者との間に共感が生まれにくい点

 まず1は、現代美術の作品はそれ自体が一見しても何を意味しているのか、何が良いのか理解できないという特徴が指摘されることは多い。現代美術は1917年にニューヨークの美術展にマルセル・デュシャンがと既製品であるトイレに人名と思われる文字列を明記した作品を出展したことが起因である。以来、現代美術は作家の内面性や主張それらを社会問題と合わせ提起することが作品の特性として挙げられる。パラダイムシフトといえるそこから美術とは何かという問いが今日まで続いている。作品を一見する、もしくはキャプションを見るとその内容の理解が深まるというのが従来であった。他方で、本出展作品はそれとは反対の側面がある。作品の構成に既に鍵となる文字列、音声である発話がある。文字情報で鑑賞者に訴えかける作品が目立った。したがって、鑑賞者が作品と対峙して自由な発想となる余白の有無に疑問が残ることに他ならない。

 第2に、先進国と言われる国々を中心としてあらゆる対象が〈ポリティカル・コレクトネス/政治的正しさ〉(以下ポリコレ)の影響下にあり、さらにはそれを前提とした作品づくりが背景にある。いわゆるマイノリティといわれる社会集団のみからの着想だと感じやすいことが問題視されることがある。本展覧会の主題も該当し数年にわたって再三にわたり提起されてきた。主に人権問題を扱う作品は時にマジョリティである鑑賞者にとっては時に重苦しくあたかもジャーナリズムによって制作されたモノを見聞きしているかのような感覚になることは想像に難くはない。また、ポリコレ自体が「西洋の文明人」による反省から生まれた啓蒙として認知されていることもあり、反発する意見があるのだろう。

最後の3は、作品それ自体がもつ魅力を感じられないということにつながる。言い換えれば、作品から快を受け取ることができないというように。現代美術の領域において魅力は希望を含意しているのであろう。作品で社会的関心事を主題に扱うことと快の存在は両立する。厳しい現実はそれとして表現され、しかし見る人に違和を覚えさせる要素を付加することで可能だ。作品の中に現代美術では視覚的な美しさが最重要関心事からは外れていることが共通認識としてあるが、本展覧会も例外ではなく、技術的視覚的関心事の優先度は高くないように見受けられた。したがって快は目的でもなければ手段としてもここでは問われない。

擁護

 上述の批判的言説対する私の擁護としての見解は以下のとおり。

 第1に対する応答は、現代美術の方法論は何かに制限を受けることはないので、今回の展示された作品に何も問題はないといえる。この一言で今回の展示内容の正当性は担保される。何を表現したか不明な作品の存在が認められる以上、何を表現したか明白な作品もまた認められるべき。文字情報についてはどこまでが容認するのか、キャプションでの表現か作品に組み込むべきなのか、これは今後とも検討する余地がありそう。

 第2は、ポリコレの影響下に対する懸念であるが、まず、マジョリティー側がこの件を懸念するという状況それ自体に傲慢さがあるといえるのではないだろうか。それは展示の主題に対して無関係と思えるある種の余裕から生まれるもの、そしてその排他性からくるように思う。なぜ、同一の主題が繰り返し行われるのか、それはその問題がもつ普遍性、そしていまだ根深い社会問題として解決ならない困難な状況であることに他ならないからである。西洋の価値観の押し付けとあったが、それをいうなら日本社会は今一度西洋から押し付けられた当たり前のように享受している「自由」「人権」を考えるべきなのかもしれない。

第3では、作品それ自体の審美的、技術的魅力の問題であった。芸術家が審美的なもののみに関心を示すことへのアンチテーゼとしての側面があったはずだ。やがてそれが主流となり、それは現在でも続いている。芸術作品はあらゆる政治性・社会性を帯び、全くそこから自由になることは不可能だという言説があるとおりであるが、今回は弱者からの社会問題の提示であるため、そこに快を求めてはいけないのであろう。
 また、日本語の問題であるが、現代美術という語が〈美術〉という語に我々は少なからず美を期待しているのではないだろうか。現代という単語が結合すればそのニュアンスが弱まるのだが。芸術ならまだしも少なくとも美術という単語は現代アートの文脈では適切ではないと主張する。

懐疑

 ここまで擁護してきたが、私自身もこの展示に全く疑問がないかといえばそれは本意ではない。理解できない点、そしてキュレーションの部分で懐疑的なことが多々あった。それは以下のとおり。
 説明的である作品が多数だったと指摘されていたが、それを回避するにはこしたことはない。何をもってして作品として成立するかはそれぞれだが、その説明から思考を誘導していく傾向があったように思う。確かにそこには鑑賞者が自身と向き合って過ごす余白のようなものは残念ながら感じられなかった。啓蒙的な作品を制作するのであれば余計に快は追求した方がその効果はあったのではないだろうか。また、作品の近くに書籍を配置してあることがあった。これは芸術の敗北だと思う。その書籍に本来の意味内容とは異なる概念をもたせるなら作品として自律するが、そうではなく作品を解説する機能でしかなかった。芸術家として自信のなさの表明でしかない。非常につまらないモノを見せられているかのようで、鑑賞者に対して不誠実そのものであった。
 キュレーションという観点では、作品が空間を構成する一つの要素でしかない展示表現があり、こちらは作品に対して不誠実と言わざるを得なかった。移動可能な作品であることの意味を今一度考慮するべきであった。
 展示タイトルである野草はたくましく生きる個を象徴すると先述したが、本展覧会では、強さをもたない者は考慮されていないのか。作品からは強いエネルギー、主張を受け取ることができた。しかし、声をあげられない弱者はこれを見てどう感じるのだろうか。その人たちに対してのケアはないように思えた。

都市 

 最後に開催地を横浜にする意味は何かを考えたい。どこでもよかった可能性は否定できないが、横浜市民の税金で開催している以上は多少考慮するべきであったが、それがあまり感じられなかった。早くから外国との交易が始まった港町、中華街の存在、古くから中国人移民の受け入れなど横浜と中国はおそらく日本のどの都市よりも強く関係性があり、いかようにも発展できるはずだが動機付けがとにかく薄かった。今回の展示は中国出身のディレクターで、本国で開催できない内容というのは展示を見ても理解できるがゆえに会場が単なる交換可能な箱とならないような理由が欲しかった。
 芸術家は国家よりも都市を意識する方が活動しやすいように思う。それは国家への従属を意識することは何らかのイデオロギーから自由にはなれないこととは無関係ではない。作品からプロパガンダを想起してしまうことがある。今後も都市と芸術ついて考えていきたい。

今回の展示は特段素晴らしくもなく、特段悪くもなかったというのが私の結論である。

以上。


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