飯田龍太『百戸の谿』30句撰(+予撰)

 今年(二〇二三年)の五月一日、現代俳句協会青年部主催勉強会『飯田龍太の風景 他郷を故郷のごとく』にてパネリストを務めさせて頂いた。三月の半ばに飯田秀實氏(一般社団法人山廬文化振興会 )のお導きの下、「山蘆」にもご訪問させて頂き、貴重な体験となると共に、機会があればまた訪れたいと思った。なるほど「山蘆」は俳句をやるにはこれ以上ないというくらいの環境で、良し悪しはともかくとして湧き上がるように句が出来ていったことを強く覚えている。飯田蛇笏・龍太の魂が今でも「山蘆」に宿っているのではと錯覚するほどだった。
 だが、飯田龍太という俳人について何を理解したのかと問われると答えに窮してしまう。当然丸腰で「山蘆」に挑んだわけでもなく、飯田龍太全句集を読破し、何千句もある中から十句を撰んだ上で臨んだが、龍太という作家に汲みつくし難い深みや奥行きがあるということを除いて、“分かった”ことなど無かったというべきだろう。
 自分ごときが龍太の全てを汲みつくせるなどと毛頭思わないが、強く感銘を受けた作家として、せっかくの全句集を再読し、丹念に撰をして少しでも理解を深めていこうと思う。

『百戸の谿』より30句撰
春すでに高嶺未婚のつばくらめ
初蝶やみどり孤ならぬ麦畑
つばくろの甘語十字に雲の信濃
夏山と一壁額と照し合ふ
樺の梢遠山かけて梅雨の糸
谿近き屋後父情の夕ながし
花桐に一語を分ち愛の旅
暁の梅雨ふりわけひびきこころもまた
炎天や力のほかに美醜なし
麦蒔くや嶺の秋雪を審きとし
鰯雲「馬鹿」も畑の餉に居たり
山河はや冬かがやきて位に即けり
風邪ごこちして追憶にどつと冬
新米といふよろこびのかすかなり
雪の襞生死もあらず野に垂れて
大夕焼夜は地に貽るもの多し
夏負けて胸乳微に入る西日の中
黴の宿身にしたひ寄るミシンの音
牛も無限のかず夏旅もいつか果つ
ひぐらしの打振る鈴の善意かな
みのるひかりと幾家のいのちことなれり
秋燕に満目懈怠なかりけり
綺羅の灯も露卍なるこころの音
ふるさとの山は愚かや粉雪の中
紺絣春月重く出でしかな
春蟬に縞目もわかぬ麦畑
甘藍をだく夕焼の背を愛す
かまつかに露のいらかの雀どち
露の村墓域とおもふばかりなり
麦蒔の一族ひかり異なれり

 普段から「詩情」という言葉を眉唾なものと考えているが、仮に龍太の句には「詩情」が豊かであると主張するのだとしたら、その拠り所は“定型の打破”にあるのかもしれない。これは筑紫磐井氏が『飯田龍太の彼方へ』で主張したこととは真逆の主張となる。定型は何も五七五や、句跨りなどのいくつか許されている破調を含む云々という話だけではなく、およそ俳句に馴染まないことばを、句材との響き合いにより、ごく短い綴りの中で効果を持つように彫琢したということではないか。当然、筑紫磐井氏が主張するところの定型的な句も多数見られるのは確かで、定型に対する深い理解を礎にしてその定型を破っていくという、こうやって言い表してしまうと何とも面白味のない、だが芸術の真を丹念に追及した作家だという仮説が立てられる。
 正直なところ、龍太の俳句はどれも良いと思ってしまい、撰をするのが極めて難しい。自分の撰が、他人から見たらてんで的外れかもしれないという思いもあるのだが、それだけ飯田龍太という作家は“広い”とも言えるのではないだろうか。
 実質60句撰ということになってしまうのだが、予撰の中からさらに30句を抄出したい。

『百戸の谿』予撰より30句撰
春の露四肢に行方の恃まれず
いきいきと三月生る雲の奥
満月に目をみひらいて花こぶし
山つつじ照る只中に田を墾く
きんぼうげ川波霧を押し開く
炎天の谿深く舞ふ一葉あり
炎天に樹樹押しのぼるごとくなり
蛍火や箸さらさらと女の刻
リヤカーの病者に冬日遍照す
霧きえて鍬強くなる冬田の畔
落葉して幾条ひびく終電車
春雷の闇より椎のたちさわぐ
熱の子に早鐘打つて遠蛙
親しき家もにくきも茂りゆたかなり
麦刈の餉としらるるも遥かかな
梅雨月やでうでうとして蜂の巣に
白樺の夜に入る翳も高みより
翡翠に梅雨月ひかりはじめけり
大木の肌も真昼やきりぎりす
草木瓜の歯型にほひて月稚く
秋耕なしただ汗の背と鴉の黒
天つつぬけに木犀と豚にほふ
ひぐらしの幹のひびきの悲願かな
曲の波良夜をさそひゐたらずや
父の眸や熟れ麦に陽が赫つとさす
満月のなまなまのぼる天の壁
わが息のわが身に通ひ渡り鳥
炭売女朝かがやきて里に出づ
抱へたる蕎麦にも雪のみだれつつ
ゆく年の火のいきいきと子を照らす

 予撰の方には所謂“巧さ”のようなものが光る句が多かったように思う。ホトトギスの系譜だからというわけでもないだろうが、“おハイク”の作り方は誰よりも熟知していたのだろう。いくらでも“おハイク”を量産できる技術を備えた上で、定型からの逸脱、もしくは定型に収まりきらない“情”の部分を醸す言葉遣いを追求して、俳句を詩へと昇華している。そんなメカニズムのようなものを作家・飯田龍太に垣間見た。

 半年前の勉強会では「パノラマ効果」などという逃げ口上のような造語でお茶を濁したわけだが、「「山蘆」が龍太句を作ったのではなく、龍太を透過して「山蘆」が表現された。「山蘆」はきっかけに過ぎなかった。」という通り一遍のことを言ったに止まる。龍太の伝記的なエピソードも大変興味深いことは確かだが、まずは龍太の残した作品を丹念に鑑賞することに時間を割きたいと思う。

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