鈴木光影句集『青水草』私見

先日、句集『青水草』を鈴木光影氏より謹呈いただいた。
遅ればせながら、感想と私見を述べさせていただこうと思う。

まず、身近なモノ・出来事の把握に光影さんの個性が強く表れていた。
自分自身のフィルターを通して世界を把握し、自分自身のことばで五七五定型に落とし込む姿勢こそ俳句の王道であると改めて実感した。

 殖えてゆく鬼節分の雑踏に
 遠足の列にいつしか紛れ込む
 冷房を消しもう一人居るごとし
 夏終る風力発電の白羽
 垂るる柿己が重みに気づかざる
 鯛焼の少し笑つてゐるらしく
 十薬のいちど亡びてきたやうに

また事柄俳句であっても把握の切り口が独特で、平坦さや類想感を回避している点が見事だった。

 晩秋の東京に村ありにけり
 常人に棲むなまはげの如きもの

写生句については、客観描写であれば動きの速度で特徴づける、もしくは主観写生から虚の世界へと導く仕掛けに面白みがあった。

 水見えてくるや海月を見てをれば
 片蔭にもう使はない髪飾り
 曼珠沙華ぐさりと土に刺さりをり
 絶頂をとどめてゐたり大枯木

上に挙げた以外の写生句についても、句集全体からはあまり目立たないものの、丹念に描きこまれていた。

 よく見えて遥かなりけり冬灯
 托鉢も蓮の葉もある上野かな

社会性俳句への親しみも随所に表れており、花鳥諷詠を神棚に上げない姿勢は学んでいきたい。

 投下せしミサイルいくつ夏の雲
 「復興五輪」果て福島の秋の風

最後に個人的感想となるが、以下の句には『死の舞踏』のテーマ性を感じた。

 骨と化さば踊るほかなし寒昴

句集の全体感として、光影氏の感性と現実との衝突があるように思えた。
繰り返しになるが、身の回りのことを受け止めた自分自身の感覚をできる限り素直に五七五定型に落とし込むことこそ俳句の王道なのだと再認識した。

鈴木光影氏には重ねて御礼申し上げたい。
コールサックでの評論もよく読ませていただいている。
遅筆ながら、自分もnoteへの投稿を続けていくべきだと志を新たにした。

P.S.
光影さま、句座を囲める日を楽しみにしております。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?